中国の歴史・文化・風土・思想

孫文生誕150周年記念イベント 2015.11.09

中国の全国政治協商は2016年11月12日に中国と台湾が一緒に「孫文生誕150年記念イベント」を開催するための企画を行っていると発表した。
 第12期全国政協常務委員会第13回会議は8日、「孫中山先生生誕150周年記念行事の開催に関する決定」を採択した。決定は「2016年11月12日は偉大な民族英雄、偉大な愛国主義者、中国民主革命の偉大な先駆者である孫中山(孫文)先生の生誕150周年記念日だ。民族の独立、社会の進歩、人々の幸福のために孫中山先生が打ち立てた歴史的勲功を偲び、孫中山先生の愛国の思想、革命の意志、進取の精神を学び、継承し、発揚し、国内外の中華民族の大団結を揺るぎないものにし、発展させ、最も広範な愛国統一戦線を揺るぎないものにし、発展させ、両岸関係の平和的発展を維持し、祖国の平和統一の大業を共に推進するため、第12期全国政協常務委員会は盛大な記念行事を開催することを決定した」とした。
 また台湾では、中華郵政が中華民国の国父(建国の父)、孫文の生誕150年を記念し、記念切手(2枚1組)を発行する。さらに中央銀行は中華民国の国父と呼ばれる孫中山(孫文)の生誕150年を記念し、孫文の誕生日である11月12日から、台湾銀行で記念銀貨を限定3万8,000枚発売する。
 筆者の所属している組織団体も日中合作で孫文のアニメ映画を企画しています。来年は孫文ブームになるかもしれまない。 

中国初のノーベル医学生理学賞:文革時代の秘密のプロジェクトだった 2015.11.13 

2015年のノーベル医学生理学賞を受けた中国の屠呦呦さんは、中国生まれで中国育ち。北京大学医学部卒で初めてのノーベル科学賞受賞者である。女性としてはアジア初。マラリア治療に広く使われているアーテミシニンを発見した功績に対する授賞だが、これは文化大革命時代に毛沢東主席の号令で作られた秘密プロジェクト523(1967年5月23日にスタートしたのでこの名が付けられた)の中で生まれたものだったという。
 研究成果はしばらく秘密にされ、公開されたときは研究チーム名で出て、中国人研究者の間でもアーテミシニンを発見したのが誰なのかは長らく知られていなく、発見者を突き止めたのは米国立保健研究所(NIH)のマラリア研究者たちだった。
 マラリアは当時、中国南部でも猛威をふるっており、毛沢東主席は1967年に特効薬開発を中国の科学者たちに命じた。屠呦呦さんは幼い娘を預けてマラリアがはびこっている南方に半年間単身赴任したあと、北京に戻って抗マラリア薬探しに没頭した。1600年前の文献にあった「枝を水に浸して、その水を飲む」という記述で、それまでの「煎じる(煮出す)」手法をやめて常温のまま有機溶剤で成分を抽出することで発見にたどり着いたが、その成果は文化大革命が終わる1977年まで公表されなかった。そして、公表されたときも個人名は記されなかったという。

テレサ・テン(鄧麗君)没後20年 日本、中国、台湾に愛される 2015.11.17

美しい歌声で人々を魅了したテレサ・テン(本名:鄧麗筠)は1995年5月8日、喘息の静養のためたびたび訪れていたタイのチェンマイ:メイピンホテルで気管支喘息による発作のため死去で急逝(42歳)。
あれから今年ではや20年が経過したが、死亡した原因には謎も多く「麻薬服用による中毒死」「エイズによる死」「中華人民共和国に対する反政府運動に関わったことから暗殺された」などの噂もある。筆者が大連での勤務していたときの話だが、もっぱら「エイズだった」との噂だった。
 祖籍:中国河北省大名県鄧台村、父親は中国河北省、母親は山東省出身
 出生:1953年1月29日、台湾雲林県褒忠郷田洋村、
 外国語にも堪能であり、北京語に加えて台湾語、広東語、山東語、日本語、英語、マレー語、フランス語が話せたという。
英語名のテレサ (Teresa) は、彼女自身が尊敬するマザー・テレサに因んでつけたものと言われてきたが、実際はカトリック信徒だった彼女の洗礼名を転用したことが明らかにされている。テンは本名の姓『鄧』の中国語音をウェード式表記し、英語読みしたものである。
 1990年から同棲関係にあった14歳年下のフランス人、ステファン・ピュエールが最期を看取った。同月28日に台北で国葬級の葬儀が執り行われ、世界各国から3万人ものファンが詰め掛けた。彼女の棺は中華民国の国旗と国民党党旗で覆われ、台湾での国民的英雄ぶりがうかがえた。墓所は台北市の北東に位置する台北県金山郷の金宝山にあり、小さな公園のように整備され本名の一字を取って「筠園」と呼ばれている。 
墓前には銅像があり、彼女の歌声が絶えず流されている。没後10年目に当たる2005年5月8日には、日本をはじめとするアジア各国からファン300人ほどが墓所に詰めかけ、追悼集会を開いて生前のテレサ・テンを偲んだ。台湾での彼女はあまりにも偉大なので、遺体は火葬されずに土葬された。没後50年は生前の姿であり続ける。
◇ジャッキー・チェンとの婚約解消
 ファンクラブ会長の張艶玲氏によると、最も心に残っているのはテレサの婚約とその解消騒ぎだった。1981年、香港の富豪男性ジャッキー・チェンと婚約を交わしたテレサだが、相手の家族の反対によりこれを解消している。当時、結婚式の介添え役を頼まれていた張氏だが、翌日にはいきなり「不要になった」と言われ驚いたという。しかし婚約解消については、「賢明な選択だった」と語っている。
 ジャッキー・チェン自叙伝でテレサについて、2人の破局は「正しい決定だった」としている。交際を始めた時から、性格が合わないことに気づいていたという。ある日、映画の脚本について仲間に相談していた時、テレサから「会いたい」と電話があった。待ち合わせた店では、テレサを待たせて相談を続けたが、1時間ほどしてテレサが帰ってしまった。その直後に電話があり、「あなたにとって私は必要じゃない。仲間と一緒にいればいい」と、別れを告げられたという。
◇フランス人との解消
 1990年にフランスへと居を移したテレサだが、ずっと彼女に付き添い世話をしていた家政婦もコメントしている。テレサの最後の恋人となったのが、15歳下のフランス人男性だった。粗野で乱暴と言われるこの男性だが、家政婦によるとよく気の利く優しい人で、「世間のうわさとは全く違う」という。テレサが男性と結婚しなかったのは、母親に反対されたためだという。「一緒に暮らすのはいいが、結婚はいけないと言われていた」「理由は性格が合わないことと、相手との年齢差が大きすぎること」だったと語っている。

日本軍に感謝していた毛沢東 2015.11.20

新潮新書『毛沢東日本軍と共謀した男』(遠藤誉著)に書いてある内容を紹介するが、「日本軍の進攻に感謝する」。こう明確に言い切った中国人がいる。他でもない「建国の父」毛沢東である。これは1956年9月4日、訪中した元日本軍中将遠藤三郎に対して毛沢東が言った言葉だという。
 日本の敗戦後に4年間続いた国共内戦は、共産党の勝利に終わる。中国共産党は1949年に中華人民共和国の建国を宣言した。とはいえ、中華人民共和国が国連に加盟するのは1971年なので、それまでは「国際的に承認された中国」は中華民国(台湾)のままだった。だから、中国人の意識の中では戦後も「国共内戦」は続いていた。
当時は中共も台湾も「日本軍人の力を使って」相手を潰すことを考えており、日本の軍人は中台が奪い合う対象だった。
 毛沢東は、日本の支那派遣軍総司令官だった岡村寧次大将を中国に招きたかったが、戦後に蒋介石と太いパイプを築いた岡村は「白団」という元日本軍人による軍事顧問団をつくって台湾を支援していたため、代わりに招聘したのが遠藤中将だった。毛沢東の「日本軍に感謝する」発言が、他ならぬ元日本軍人に対してなされたのには、そういう背景があった。
 ちなみに毛沢東は、日本軍の「侵略」という言い方は、一貫して使っていない。使っていないが、日本人の側が贖罪意識から、毛沢東の使う「進攻」という表現を「侵攻」「侵略」と言い換えている例は多々ある。
 徹底したリアリストだった毛沢東は、彼に会いに来る日本人がみな左翼で、誰もが判で押したように「謝罪」ばかり口にすることにうんざりしていたという。それもそのはずだ。彼が欲しかったのは「左翼の謝罪」ではなく、「元日本軍人の協力」だったのだからという。

国家秘密?共産党指導者の誕生日 2015.11.23

中国では共産党指導者の誕生日は国家機密になっている。中国政府は公式ホームページなどで指導者の略歴を発表しているが、生まれた年と月しか公表していない。例えば習近平国家主席は「1953年6月生まれ」となっている。しかし李克強首相の誕生日が「1955年7月1日」であることをインドのモディ首相がばらしたことから明確となっている。
 中国の指導者の誕生日がなぜ公表されないのか。共産党幹部の間では2説あるらしい。
1)汚職防止のため
2)呪われることが怖い
 毛沢東や周恩来ら新中国の建国に関わった共産党の指導者たちは、みな徹底的な無神論者だった。彼らの誕生日を、年配の中国人ならほとんどの人は知っている。存命中から「生誕○○周年」の記念行事が行われたり、記念切手が発行されていたりしたからだ。毛沢東は「人定勝天」(人は必ず天に勝つ)という四字熟語を愛用し、文化大革命中は紅衞兵を動員して、全国で寺院や教会を壊した。神仏のたたりを恐れなかった。時代が変り、共産党指導者は戦争を経験した革命家から、エンジニア出身者などに代わった。共産主義者であるはずの彼らはいつの間に、呪いなどの迷信を気にするようになった。ある時期に複数の指導者が同じ時期に重い病気になったことをきっかけに、江澤民の意向で発表しなくなった。
                                     (産経2015.11.23)

中国の年中行事(XX節)はいくつあるのか 2015.11.24

中国の年中行事元旦(1月1日)日本や欧米諸国のように新暦を祝う習慣はないが、元旦である1月1日だけ企業などが休みになる。中国では新暦ではなく、旧暦(春節)を祝う。
◇春節(旧暦1月1日)
 春節は日本の正月と同様、中国最大の行事である。旧暦の新年は毎年異なるが、1月の後半から2月の前半になることが多い。春節の期間は、企業、商店など3日から一週間ほど休みになる。地方に出稼ぎに出ている人など多くの人々が帰省し、一家団欒の時を過ごす。春節時は交通機関が混雑し、料金設定も通常より高くなる。正月の料理は、一般的に南方は「餅」、北方は「餃子」を食べる。夜中12時を過ぎると家々で一斉に爆竹を鳴らし、花火をあげ、にぎやかに新年を迎える。
◇元宵節(旧暦1月15日)
 旧暦の新年から15日目過ぎた日を元宵節という。新年になってから初めて見える満月の夜で、その日は家族と一緒に満月のように丸い餡入りの団子スープを食べる。地方によっては、灯籠を揚げる習慣もある。
◇情人節(2月14日)
 情人節とはバレンタインデーのことを指し、一般的に若い人の間で知られているイベントである。欧米の習慣と同じように、男性が女性にバラの花束を贈ったり、食事をご馳走したりする。日本のように3月14日のホワイトデーを過ごす習慣はない。
◇婦女節(3月8日)
 国連の記念日で国際婦人デーと呼ばれている。1904年3月8日にアメリカで行われた「女性参政権要求宣言」にちなんで設定された。中国では女性に関する会議や行事が行われ、女性のみ仕事が半日休みになる。
◇清明節(4月5日頃)
 春分の15日前後を清明節という。日本のお盆のように故人を偲び、先祖の墓参りをする。またこの時、墓の掃除をする習慣もあるので「掃墓節」とも呼ばれている。
◇労働節(5月1日)
 労働者の休日であるメーデーで労働節を挟んで連休になる。この時期を利用して旅行にでかける中国人が多く、日本のゴールデンウィークとも重なるので観光地はどこも大変混雑する。期間中は観光料金も値上げされる。
◇端午節(旧暦5月5日)
 春秋時代、楚国を代表する詩人の屈原を記念し、チマキを食べたり龍船祭りを行う日である。屈原は多くの民衆から人望を集める存在であったが、楚国の行く末を憂うあまり川に身を投げ自殺してしまう。彼を慕う民衆は屈原の遺体が魚に食べられないように川に向ってチマキを投げた。このことから、端午節にはチマキを食べる習慣が生まれ、屈原を助けるために船を出したことにちなんで現在の龍船祭り(ドラゴンボードレース)が行われるようになった。
◇児童節(6月1日)
 国際子供デーにちなんで作られた子供のための祝日。14歳以下の児童は一日休みになる。休みの日に子供は両親と遊びに行ったり、プレゼントをもらったりする。
◇行政区記念日(7月1日)
 1997年に英国から香港が返還された日。共産党の記念行事が行われる。
◇建軍節(8月1日)
 1927年8月1日の中国共産党の武装蜂起を記念する日で、解放軍関係者のみ半日休みになる。期間中は各地で行事が行われ、中国人民解放軍の誕生を祝う。
◇中秋節(旧暦8月15日)
 中秋節は中秋の名月の日に、「月餅」という焼き菓子を食べながら一家団欒の時を過ごす中国伝統行事。月餅とは中に餡や塩漬けしたあひるの卵などが入っている伝統菓子である。中国国内では期間中、日頃お世話になっている人や会社の取引先などに月餅を贈る習慣がある。
◇重陽節(旧暦9月9日)
 中国の陰陽思想では奇数は陽の数であり、縁起のよい「9」が二つ重なっていることから重陽と呼ばれている。また菊が咲く季節であることから、菊の節句とも言われている。山頂で菊花酒を飲めば疫病にかからずに済むという昔からの言い伝えがあり、今もなおその習慣が残っている。
◇老師節(9月10日)
 老師とは中国では教師を意味する。老師節は学生が教師に感謝する日である。また、この日は孔子の誕生日でもある。学生はカードや花束など、日頃の感謝の気持ちを教師に伝える。
◇国慶節(10月1日)
 中華人民共和国建国記念日。一週間ほどの大型連休になり、中国の観光名所は観光客で賑わう。春節の次に盛大な連休である。
◇臘八節(旧暦12月8日)
 仏教行事のひとつで、釈迦が悟りを開いた日とされている。僧侶を中心に、一年の豊作を祈るため、「臘八粥」という8種類の穀物で作ったお粥を食べる地方もある。
◇クリスマス(12月25日)
 中国の都市部では若者を中心にイベントやパーティーなどが行われる。クリスマスの次に中国最大の祝日、春節を控えているため、クリスマスのデコレーションやイルミネーションは春節まで飾られる。

隠された「大飢饉」暴いた中国人作家楊継縄氏、国際賞を受賞 2015.11.24

1960年頃、中国で起きた「大飢饉」の実態を暴いた著書「墓碑」作家・楊継縄氏が、勇気あるジャーナリズム精神を称えられ、「スティーグ・ラーソン」賞を受賞した。楊氏は受賞式典でも、中国共産党が政策の失敗を隠蔽し続けていると指摘し、悲惨な当時の状況を改めて語った。
 楊氏は中国国営通信「新華社」の元記者で作家、ジャーナリスト。1990年代から、政治的リスクをおかして、「大躍進」政策に起因した「大飢饉」の実態を調査。香港で2008年、調査内容をまとめた『墓碑―中国60年代大飢饉の真実の記録』を出版した。
 楊氏は著書のなかで入手した資料と証言に基づいて1958~1962年で3600万人が餓死したと明かし、「大飢饉」は天災ではなく共産党政権による人災だと指摘した。同書は一時、本土で発刊禁止となった。
 式典に出席した楊氏は、「悲哀に満ちている」と心境を明かした。これは、3600万人の餓死と、50年以上経った今も悲劇が隠ぺいされていること、またこの真実を暴露したため誹謗中傷を受け、圧力をかけられている人々がいることへの悲しみだという。
 75歳の楊氏は新華社で高級記者(局長)まで務めた後、2001年に「中国改革」等の雑誌編集を担当。2003年から雑誌社「炎黄春秋」の副社長に就任したが、2015年、自身の病気や共産党の圧力などを理由に離職した。

除夜の鐘で有名な寒山寺(江蘇省蘇州市) 2015.11.25

◇寒山寺の由来
 寒山寺は、南北朝時代の梁(南朝)の天監年間(502年 - 519年)、武帝の時代に「妙利普院塔院」として創建されたとされる。寒山寺という現在の寺名は、唐代の貞観年間(627年 - 649年)に風狂の人寒山がこの地で草庵を結んだという伝承にちなむ。襄陽出身の張継が、有名な「楓橋夜泊」を詠んだのは8世紀中頃のことである。伽藍の創建は8世紀から9世紀にかけてのことであり、石頭希遷によると伝えられる。全盛期の寒山寺の面積は広大で、巷間で「馬に乗って山門を見る」と言われるほどであった。当時、北方から訪れた旅行者の多くは、まず寒山寺を参詣してから蘇州の市街に入ったという。
 宋代の太平興国初年(976年頃)には、節度使の孫承祐によって7層の仏塔が建てられた。嘉祐年間(1056年 - 1063年)には「普明禅院」と名を改め、1134年(紹興4年)に僧法選によって再建された。
◇寒山寺は過去5回消失
宋以後は伽藍の盛況をみた寒山寺であったがこれまで5回焼失している。現在の寒山寺は、清末の1906年(光緒32年)に程徳全が再建したものであり、それぞれの建物はいずれも比較的新しいものである。
◇寒山寺の鐘
 張継の詩に詠まれた寒山寺の鐘は、唐代に鋳造されたものと考えられるが、失われて久しかった。明代の嘉靖年間に、本寂禅師によって2代目の鐘が鋳造され、鐘楼も建てられたが、この鐘も16世紀末葉から17世紀前半にかけて失われてしまった。 従前より寒山寺では2つの鐘が用いられていた。ともに最後に寒山寺が再建された、約100年前の清朝末期のものである。
 ・1906年に中国で製造された大きい鐘
 ・同じ頃に日本で鋳造されたもの
初代内閣総理大臣伊藤博文による以下のような銘文が鋳されている。
"姑蘇寒山寺、歴劫年久、唐時鐘声、空於張継詩中伝耳。嘗聞寺鐘転入我邦、今失所在、山田寒山捜索尽力、而遂不能得焉。乃将新鋳一鐘齋往懸之。  伊藤博文"
◇除夜の鐘
 寒山寺の鐘声はとても有名。毎年の大晦日、あるいは元旦の夜、寒山寺では「鐘撞きの儀式」を行い、鐘を108回撞きます。「鐘声は人の煩悩を代表している。108回の鐘声を全部聞いたら、来年の悩みはすべて風に吹かれ去る」という伝説もあります。
 除夜の鐘を聞きながら新年を迎える行事は、1979年に藤尾昭(現在、大阪府池田市日中友好協会会長、蘇州市名誉市民=故人)が発起人となって始まった。以後、12月31日には日本ばかりでなく、韓国をはじめとする各国の観光客や中国人も大勢参加するようになった。

蘇州市の寒山寺

日本人と中国人はどこが違うのだろうか         2016.03.14

中国に住んでみて(旅行ではない)、そして付き合いしてみて、見たことや感じたことなどから比較すると、いろんな場面で違いがわかる。以下はカテゴリー毎に紹介する。
1.言語習慣の違い
 ・中国語会話:YES/NO意思表現をはっきり、先に言う。文法は英語と同じ。
 ・日本語会話:結論を最後まで聞かなければ分からない。
        結論も曖昧になる(YES/NOの中間)事が多い。修飾語表現が多い。
 ・日本人:言葉ではなく実績で自分を示す。挨拶で常に“何時でも遊びに来て下さい”と招待する。
      (言葉上で言っている場合が多い。)“こそあど言葉”が多い。
 ・中国人:自己主張が強い。自己防衛、誤解をなくすために言葉ではっきりと主張する。
      招待する気持ちがある時のみ“何時 遊びに来てください”と言う。
      会話の途中で、“那个那个”(あのあの)を言うときは、次の言葉を考えている。
2.食習慣の違い 
 ・中国:動物の肉なら殆ど食べるが生を食べるのは控えている。食べれないモノは飛行機と机と言われる。餃子は主食(特に北方地域、南方は米)。料理は必ず火を通す。(中華料理)
 ・日本:米が主食。ラーメンも主食。
 ・中国人:馬肉も刺身にして食べる日本人からマグロの刺身を食べなさいと言われても喜ばない。
      最近は沿岸部で刺身(生魚片)を食べる人が増えている。
      生卵、卵ご飯は食べない。ゆで卵や目玉焼きは食べる。
 ・日本人:中国人に犬肉か蛇肉料理を食べますか?と言われると困る。
3.感情表現の違い 
 ・日本人:他人の前では喜怒哀楽の表現を抑えている。
 ・中国人:喜怒哀楽の表現を顔に出し相手に自分の気持ちを伝える。
4.贈り物に関して認識の違い 
 ・日本人:プレゼントを渡す時に中身より気持ちを重視する。
 ・中国人:中身の価値から相手の気持ちを量る。
  渡す贈り物により日本人と中国人の考えが異なるので、注意。
5.座り方の違い 
 ・日本人:昔から畳での生活のため正座をする習慣がある。
 ・中国人:生活習慣では、ベット、椅子、ソファなどに足を掛けて座る。
 ・中国:お客さんを楽に座せるのを望む。
6.食べ方の違い
 ・日本人:皿を持ち上げて食べるのを避ける。料理を綺麗に食べ尽くすのが礼儀。
 ・中国人:頭を下げて食べるのを避ける。
      全部食べてしまうと、量に対する不満がある、面子を潰されたと思う。 
      食べ残したら食べ切れないほどご馳走でしたの意味。
      お客様へ、先に料理を取ってあげる。
      “見え”をはった料理を出す。(相手にもよるが) 
7.交流の違い 
 ・日本人:親しくなっても距離を置く。誘われても割り勘をする。
 ・中国人:親しくなるほど距離を無くす。好朋友→老朋友へ
      誘った方が全額負担する。(中国人には割り勘禁止)次は自分が奢る気持ちが必要。
8.タバコを吸うときの違い 
 ・日本人:煙草を先に相手に勧めることを考えない。
 ・中国人:煙酒不分家と言って煙草は必ず相手に勧めてから吸う。
9.男女平等の認識の違い 
 ・日本:男女平等と言っても家庭では女性が家事をする事が多い。
 ・中国:家事でも男女平等で、お客さんが来ても男性が料理を作って招待する。
10.迷惑に関する認識の違い 
 ・日本人:なるべく人に迷惑を掛けないよう注意する。
 ・中国人:お互い助け合う中で信頼関係を築いて行くことだと認識している。
     道路でも平気でごみを捨てる。ごみを掃除する人に仕事を与えている感覚。
11.店での対応の違い
 ・日本:“お客様は神様”丁寧に“いらっしゃいませ”“有難うございました”と言って愛想を振りかざす。
      値段を値切らない習慣。包装は丁寧に綺麗にする。
 ・中国:店員は不愛想(特に北方地域)。値段を徹底的に値切る。
      商品を投げて渡す、おつりを投げて渡す。
      包装をしない。要求すれば包装をするときがあるが綺麗ではない。
      (最近は変わってきた)
12.プライドの違い
 ・日本人:プライドが高いやプライドを重視する人は少ない。
 ・中国人:プライド(面子)を重視する。
13.時間の観念の違い
 ・日本人;時間を守る習慣がある。
 ・中国人:時間にルーズ。理由を言わない。
14.友人同士の違い 手をつなぐ、腕を組む
 ・日本人:女同士で手をつなぐ、腕くみしている人は見ない。
 ・中国人:女同士で手を組んで歩く人が多い。
15.値段を聞く違い
 ・中国人:街を歩いていると、他人が持っているものに値段を聞く、どこで買ったかを聞く。
 ・日本人:殆ど聞く人はいない。自分で想像するくらい。

日本:「小日本・日本鬼子」、韓国:「高麗棒子」の意味は? 2016.03.22

◇日本に対して「小日本」「日本鬼子」
中国国内では日本に対する蔑称として「小日本」「日本鬼子」という言葉が使われている。小日本は国土の小ささのほか、身長が低かった日本を揶揄した言葉であるとも言われ、中国語で鬼子という言葉は嫌悪の対象であり、「日本鬼子」も侮蔑の意味合いが強い言葉である。
◇韓国に対し「高麗棒子」「二鬼子」
韓国人に対する蔑称として「高麗棒子」という言葉が存在する。
1)韓国人女性が洗濯で棒を使っていたこと、男性が棒を持って日本人の威を借りて威張り散らしていたことが「高麗棒子」の言葉の由来の1つの説。また、高句麗の時代に韓国の兵士たちは棒を武器にしていたことも由来の1つ。「棒子」はもともと武器を指し、隠語として韓国人を指すようになった。
2)日本が満州占領していた時代、日本兵が不足していたことから韓国人は日中の話し合いのなかで通訳を務めた。日本の下で働いた韓国人を中国では「二鬼子」と言っていた。現在の中国では「二鬼子」という言葉は「高麗棒子」と同義の言葉として蔑称として使用されている。 

中国の「清明節」の由来               2016.04.20

4月上旬、中国北方の大地で桃の花や玉蘭の花、中国原産でバラ科の海棠など様々な美しい春の花が咲き誇る。毎年4月5日前後に中国の伝統的な祝日である「清明節」を迎える。日本のお盆と同じだ。
この日は故人を偲び、親族が集まってお墓参りに行く。この一年の喜びや悲しみを亡くなった家族や親友に墓前で打ち明ける。亡くなった家族は別の世界へ行ってしまっているが、中国では清明節のこの日に自分の想いと祝福はかならず相手に伝わり、亡くなった親友からの愛と祝福は自分に届くと信じられている。
中国では清明節前後、小雨がしとしとと降り、静かに大地を潤す。その細かい雨が亡くなった家族と友人への想いや儚い哀しみを呼び起こす。唐の時代の詩人・杜牧の七言絶句「清明」はそんな清明節の様子を描く詩である。
 清明时节雨纷纷(清明の時節 降りしきる雨)
 路上行人欲断魂(旅人は寂しい気持ちになる)
 借问酒家何处有(酒屋はどこにあるかと尋ねた)
 牧童遥指杏花村(牧童は遥か先の杏花村を指さした)

中国の清明節
詩人杜牧の七言絶句:清明

北京人・上海人・広東人の違いは?           2016.05.05

北京人・上海人・広東人の違いは中国に長く滞在(又は、中国との関わりが長い)した人なら、それなりに理解しているだろう。一国である中国国内だが、東京・大阪以上に熾烈な人間的価値観が異なる。某氏は北京=愛国、上海=出国、広東=売国と表現しているように、中国市場でビジネス展開するには、この違いをよく判断して行うことがよい。
◇2008北京オリンピックと2010年の上海万博
北京オリンピック時の上海でのPR活動は極めて貧弱。上海万博時の北京ではPR活動は低調。これは双方がともに我々こそが中国の代表である意識と自信と誇りがあるため、相手に対する協力する意識が低い。
◇地下鉄
北京の地下鉄は1969年に開通(このときは役人専用)し、1977年に一般開放。
上海の地下鉄は1995年開通。(20年の差)。両都市ともに営業総距離は600km前後で拮抗している。
2020年までには北京30路線1,050km、上海21路線780kmの建設計画が決定されている。
1990年頃、上海人は皆口を揃え「北京の地下鉄は、上海から吸い上げた税金で作った。」と。
◇空港
1999年上海浦東空港開港し、虹橋空港と二か所になった。北京には北京首都国際空港しかない。上海人は喜びに感嘆し「北京には空港が一つしかない。このアドバンテージは果てしなく大きい」と。
しかし、2012年、北京は大空港建設発表(2019年暫定開港)された。
◇仕事での対抗意識
北京での事務所での話:上海の某社は、北京の会社に、担当者を上海人に変えると言ったら拒否反応を示す。浙江省出身の人材に変更すると言うと「もっと悪いじゃないの」と。
◇広州交易会
1957年から開催し長い歴史を誇っている。中心はの輸出入商談会である。この時期、広州市内のホテル料金は通常の2~3倍になる。タクシーは外地から来たと知るや遠回りし金を稼ぐ。特に外地から来たと知ると「お前は上海人だな」と言う。
◇食事のとき
広州市内で広東人と会食したとき、某広東人に、最初に手を付けるべき料理を指示され、それに箸を付けると、場の空気が重くよどんだ。それは広東の食習慣では最初に食べてはいけない料理だった。広東人は嘘を教え、外地の中国人を卑下した。外地人を貶めたところで何の心の痛痒も感じない。
◇中国は一国ではない。
中国流思考は、個人、一族、組織、国家、あらゆる単位で自己主張とそれらの衝突を繰り返している。各地域もこのパターンに漏れず自己の勢力拡大を図っている。昔から春秋・戦国の場であり、その歴史を繰り返してきた。また南の地域では北京中央政府の存在をなんとも思っていない。
中国ビジネス展開をする場合に重要な基本的事項でもある。

犬肉を食べる文化は非道か?               2016.06.12

広西チワン族自治区玉林市で毎年行われている「茘枝狗肉節」(ライチ犬肉祭)が、今年も6月21日から行われるが、20人余りの動物愛護活動家が北京市にある玉林市の駐北京事務所前で中止を訴えかけた。
日本人は犬を食べる食習慣がない。しかし、牛、豚、鳥、馬、鹿、熊の肉は食べている。犬の肉は、韓国や北朝鮮、中国の東北部(特に朝鮮族)で食されている。チワン族自治区でも、犬肉は食生活では大切な肉の一つである。
だいたい動物愛護活動家は勝手な判断が多く、鯨保護団体もしかりである。裏では、こっそり保護動物の肉を食べている噂もある。特に最近の中国では、家庭で犬を飼う人が増えている。これも生活民度が向上した結果であろう。
アジアの国・地域では年間およそ3000万頭の犬が食肉処理されており、中でも中国がその3分の1を占めているとされる。古来の食文化を否定してしまえば、歴史文化が壊され、その地域の特性がなくなることをどう思うのか不思議である。