第一部 出会いから老朋友へ

1.初めて中国遼寧省大連市へ

私と中国との付き合いが始まったのは1989年2月大連への出張からであった。
出張内容は「大連の現地合弁製造公司で計算機システムを検討するため来連してほしい」という大連合弁公司からの国際電話であった。私はすぐ当時の会社上司と相談し、私は何の戸惑いもなく承諾し大連へ飛立った。
当時は関西空港がなく国内線で伊丹空港から福岡空港へ、そして福岡空港から中国国際航空(CA)を使い約2時間(当時は日本から上海方面へ南下し、そして旋回し北上後、渤海湾を見ながら大連空港着)のフライトであった。初めて行く中国、初めて見る中国人空姐(日本語は客室乗務員:CA)に心が躍ったことを覚えている。
 初めて上空から見た冬の2月の大連は一面薄茶色の景色であり緑が見えなかった。そんな下界を見ながら中国民航機は無事大連空港に着陸したのである。当時は今のような綺麗で大きな空港建物ではなく滑走路脇にいくつもの赤トンボ(人民解放軍空軍機)が停止し、また空港敷地内にボツリ建物がある程度であった。勿論、2月も真冬なので、降機後はいてつくような寒さの中を徒歩で空港ビルへ入っていった。また建物の中は暗くコの字型の通りを過ぎ、入国手続をおこなった。その後の出口には人だかりだったが、人の顔がまともに見えないなど、現在の新空港ビルでは想像できない光景であった。空港の税関職員は緑の軍服を着ており、この服の色が異様に見えたことを覚えている。幸い依頼先公司の知人W部長が迎えに来てくれていたので安心して車に乗り宿泊先の民航大厦に着いた。
 当時外国人が利用できるホテルは民航大厦以外に九州飯店(現在は大連美達大酒店ラマダホテルに変更)、富麗華大酒店、博覧ホテル、家族で利用できる桃源山荘ぐらいであった。
この日の大連到着から中国及び中国人、そして大陸から見た日本そして日本人に対する認識と考え方、見方について勉強する機会が開始されたのである。
 大連に設立した新公司に赴任するまでの2年半で出張は6回、2週間/回のベースであった。毎回思うことだが、今日みたいにeメールが発達しておらず、電話は料金が高いため、もっぱら日本とはFAXを活用するやり方であった。また大連出張中は日本の仕事から開放され大連での業務に没頭できたが、帰国後に大阪本社に戻ると電話メモ、書類の山でありなかなか即、本来の仕事が開始できなかった。このため大連出張議事録は滞在中のホテルで、予め日本から持ってきた所定の出張報告書に記入している有様であった。勿論、夜は酔っ払うこともあり、その際は翌日早朝から出張議事録を作成せざるを獲なかった。

1991年大蓮電視台から見た風景

2.第二次天安門事件勃発

初めて大連を訪問した1989年2月から4ヶ月後の1989年6月4日に「第二次天安門事件」が勃発したのである。当時は鄧小平が主席であったが、学生諸君が民主化を求め全国から北京市の天安門に連日集結していた。
しかし、中央政府は群集を排除するため、ついに6月4日人民解放軍・戦車等を投入したのである。これがいわゆる「第二次天安門事件」である。中央政府の対応によりこの騒ぎが更に中国の主要都市へも飛び火し集会が活発化していた。
 大連でも大連市政府前の広場で集会が行われたようだが、幸い北京ほどではなかったと現地から聞いている。つまり大連にある現地公司の責任者は在留して情況をテレビや新聞などを見ながら情報を日本へ報告していた。
かたや、中国に在住している責任者以外の社員は殆ど帰国命令で日本へ帰国していた。また、北京天安門広場近くにある大手商社駐在員事務所の責任者やA新聞社は、事務所から天安門事件の一部終始を撮影、あるいは記録していたようである。   
 私はこれから本格的に大連の生産工場向けシステム構築で何回も行く、否、行ける楽しみがあったが今後しばらくは無理ではないかと思った。しばらく情況を見て聞いて判断するしかなかったのである。結果的に、幸い“暴動”に対する鎮圧も早く処理され、8月に中国行きが再開された。
 現在の天安門広場にはこの“暴動”と言われている動きを監視するために要所要所に監視カメラが設置され情況を監視しており、公安局が公安車で常に警戒している。集会やデモは禁止されており、ソ連崩壊の二の舞阻止、暴動鎮圧、国家転覆防止などの国家管理のもと、厳しい統制管理が実施されている。

*天安門事件とは・・・・中国の歴史では二つの天安門事件があるので簡単に紹介する。
◇第一次天安門事件(1976年4月5日:通称 四五天安門事件)
 北京市にある天安門広場において、同年1月に死去した周恩来追悼の為にささげられた花輪が北京市当局に撤去されたことに激昂した民衆がデモ隊工人と衝突、政府に暴力的に鎮圧された事件、あるいは、この鎮圧に先立ってなされた学生や知識人らの民主化を求めるデモ活動を包括していう。事件後、鄧小平が責任を問われて失脚し、魏京生は入獄。四人組が事実を曲げて毛沢東に報告したために、毛沢東は本当に反革命が起こったと勘違いし、その後の弾圧に結びついた。だが、四人組を批判する北京の人々の動きは中国全土に広がり、半年後の四人組失脚の一因となった。
◇第二次天安門事件(1989年6月4日 通称 六四天安門事件)
 1989年6月4日に、胡耀邦追悼と趙紫陽復権を求め北京市にある天安門広場に集結していた学生を中心とした一般市民のデモ隊が「人民解放軍」によって武力弾圧され、殺害された事件である。また、この事件に先立ってなされた学生や知識人らの民主化を求めるデモ活動を包括して指すこともある。
中国共産党の発表では、「事件による死者は319人」となっているが、この事件による死傷者の多寡については数百人から数万人の間で複数の説があり定かではない。また、天安門広場から完全にデモ隊が放逐された後に、人民解放軍の手によって死体が集められ、その場で焼却されたという情報があるように、事件後に中国共産党によって多くの死体が隠匿されたという報道もある。現在の日本での「天安門事件」は、こちらの第二次天安門事件を指すことが多い。

3.大連市内の宿泊ホテルと開発区との往復

大連滞在中は大連市内の民航大厦(大和ハウスと中国民航との合弁)を根城にして経済技術開発区までをW氏と一緒に公司の従業員送迎バスに乗り、市内から開発区にある公司へ通勤(中国語で通勤は上班下班”“という)した。勿論、帰宅時も、公司の通勤バスで大連市内へ戻った。そうしないと帰る手段が公司の専用車かタクシー(公共汽車)しかなかったので、嫌でもこの公司のバスに乗るしか手段がなかったのである。外国人は中国国民が使う公共バスや汽車に乗ることは危険なため、必ず公司の車輌で送迎することが原則だった。
 経済技術開発区、通称“開発区”は鄧小平の“南巡講和”で中国開放政策を掲げ経済発展させるために外資導入を行い、沿岸部の主要都市に“特区制度”を1984年に決定した。その中で大連にも“開発区”と称されるものが出来上がったのである。当時は日本の大手・中小製造メーカ約100社(キャノン、マブチモータ等)が進出し、現地生産した部品・製品を日本向けに輸出していたのである。その中にI社の現地合弁公司生産工場があった。丁度この時期が大連では第一期外資投資時代(労働集約型外国資本投資)と言えた。
 毎朝7時頃に民航大厦前に会社の送迎バスが止まり乗車して公司へ出勤するが、乗車回数が増えるに連れ途中の車内で従業員とも親しくなった。と言うものの当時の私は中国語会話「你好」、「早上好」、「晩上好」くらいしか喋れなかったが従業員が私の顔をみるとニコニコしてくれたので片道約一時間の通勤でも楽しいものだった。工場は朝八時仕事開始、午後5時終業であった。
 経済開発区へ向かう道路は当時一本しかなく、途中から片道4車線で上り下り合計8車線というかなり広く一直線に延びた道路であったが送迎用のバス、乗用車で通勤ラッシュ状態であった。この広い道路は有事の際、軍事用滑走路にも利用できるよう設計されている話も聞いた。現在は別の新しい道路が出来ており約30分~40分で経済技術開発区へ行くことができるようになっている。

4.通勤時の面白い光景に唖然

ビックリした光景はいろいろあるが、通勤途中の広い道路を車の間をぬってうまく渡る人、広い道路の白線付近には車の通過、否、車の隙間を狙って走り去ろうとする人の群れ、信号が赤でもお構いなし、殆どの車はスクラップ寸前の状態で走行している。交差点はあるが信号機が少ない、信号機があっても黄色信号の時間が日本に比べて短い。
 また自動車が走る道路の側を馬かロバか掛け合わせた可愛い目をした馬車?が「ピョコタン、ピョコタン」てな感じで、後方の農夫が軽くムチを打ちながら走る。後ろには野菜やバケツ?を積み走る姿がかなり見受けられたのである。また途中で交通事故があればたちまち大渋滞となり、クラクシションがけたたましく響き、誰も負傷者を助けようとしない。何度か人が道路で倒れ死んでいる光景も見たことがある。
この光景は現代日本にいる私には不思議としか言いようのない、また日本の過去と現在が同居している感じであった。また交通ルールがあってないような道路で日本人が車の運転をすることは大変危険であることも感じたのである。また、道路を渡る技術は日本と逆なので慣れるにはかなり期間がかかるが、私もそのうちに中国式を習得し慣れたものであった。
念のために申しておくが中国の交通ルールは日本と逆で車は右側通行であるが、鉄道は日本と同じ左側通行である。

5.トイレに紙がない

勤務先の公司ではトイレ(中国語で厠所という、一応水洗式でした)で大便用の紙(中国ではトイレットペーパーを“手紙”という)がない。W部長に聞くと「紙を置くと持っていかれるから置かない」とのこと。それ以来、用事があるときは紙持参で個室に入ったものであるが、このときに日本の駅で無料配布しているティッシュペーパの貴重さがわかったのである。公司の所有物は自分のものであるから家に持って帰ってもよいと聞いたことがある。まさに中国式発想のやり方ではないかと思った。
 また各トイレの上に水を溜めるタンクがあり、用を終えるとぶら下がっているヒモを引っ張るが、水が出ないことがよくあった。これが原因で便器に“ソフトクリームのテンコ盛り”で大便が放置されていることがよくあった。中国人のウンコは太くて量が多い。つまり日本人より胃が大きい、いや腸の太さが大きいことも後でわかった。(汚い話ですみません)
 ついでながら当時の大連空港内にあるトイレでも同じ光景を何回も見たが、扉は開けたまま大便をしている。ひどいときは大便をしながらパン(中国語で“面包)を食べている光景もよく見かけたのである。更に中国の和式トイレは日本と逆に取り付けられているので扉を開くと、いや、トイレの前に向かうと先ず人の顔と直面するのである。日本のような安全?な国に住む私にとって、常に警戒心を持って行動する中国人(中国式)発想を日本人ももっと学ぶべきではないかと思った。今の日本は平和でありかなり“ぶっそう”でまわりはスキだらけである。自己防衛の一例としてみるべきだろう。

1991年11月の大連駅

6.蝿と共同生活している生産工場の事務所

公司の事務所にエアコンはあるが夏になってもスイッチオフのままである。大連の夏は蒸し暑くなく、事務所の窓を開けておくと涼しい風が入ってくる。そのお陰か、事務所内に“ハエ”が闊歩しており、私は仕事中ながら気にかかり新聞紙を丸めて叩き殺そうとしたら、なんと中国人女性従業員から笑いながら注意を受けた。
聞くと理由は「人間はハエと共に生活しているから殺さないこと」とか。しかし天井をみると多分、日本から持ってきたと思われる“ハエ取り(くっつく)が2個程ぶら下がっていた。つまり蚊が飛んでいて自然に死んだときはいいが、人間が意識的に殺してはダメなのである。
 そういえば市場へ買い物に行っても生鮮食料品には“ハエ”が多く飛び交い、食品に留まり、不衛生な場面が何度も、しかもどこでも見受けられ買う気がしなくなり困ったことがある。私が小学生時代の時と同じ環境であった。

7.生産工場での昼食時間

公司で勤務しているときは、工場内に社員食堂があり、中国人従業員は全てこの食堂を利用していた。私たち日本人には開発区内にある日本料理店“清水”から出前弁当(重箱入り)が届き、この弁当を食べた(20元/個)。毎朝注文すると配達してくれるのである。しかしこの弁当にはだんだん飽きてきて公司の社員食堂で中国版昼食をとったことも何度かある。これが結構美味しい。おまけにご飯は大米のてんこ盛りである。見栄えはどうでもよく即ち腹一杯になればよいという感覚である。しかも安い。社員食堂の一食2元/人は、公司が殆ど負担しているとのことであった。大米の味はまあまあであった。
 また昼食後に、交替で従業員が公司内にあるシャワー室を利用している。勿論、終業後もこのシャワー室を利用する。何故か。家に風呂がない家庭が多いため公司で福利厚生設備として工場建設時に条件付けられている。湯上り?洗髪した女性が午後も仕事をする時があった。仕事柄、彼女達の側に寄ると芳醇ないい香りがする。なかなかよい香りとよい光景であった。(私は一度もこのシャワー室に入ったことがなかった)。

公司の守衛事務所

8.犬が突然消えた話

当時は大連市内でも開発区でも犬が見当たらない。これも不思議の一つであった。たまに犬を見つけても、犬は下を向いて尻尾を中に入れて人間を避けていく。「これは何だろう? 人間は犬肉も食べることを聞いた。犬は人間に食べられることを知っているから怯えているのだろう。私自身、これまで犬肉は食べたことがないが、ここに来て食べてしまった。いや知らないで食べていたかもしれないが。
 公司の番犬が二回、ある日突然消えた。W氏に聞くとやはり食べられたという。朝鮮系の飯店では決まって犬肉が出てくる。「生で食べると美味しいよ」と言われたこともあったが丁寧に断った。話では生後2~3年くらいの犬肉が一番美味しいとのことであった。 
 最近の市民生活は経済成長・発展のお陰でかなり裕福になっており、大連市内では飼い犬を飼う家庭が増えている。日本でいうペット家族である。犬は大きな顔をして散歩している昨今である。大きな顔の犬と言えば公安の警察犬(シェパード)も数回大連市内で見かけたことがある。

9.チャイナドレスでチャリンコ出勤する人

大連経済開発区内で、チャイナドレスで自転車に乗り出勤する姿が結構目についた。これも日本では考えられない光景であり、私としては忘れられない一コマである。このチャイナドレスで出勤する光景の写真を撮っておけばよかったと今でも思う。チャイナドレスは中国語で“旗袍”という。どうやって自転車に乗る? 想像するとたいへん滑稽な姿である。チャイナドレスはご存知のようにサイドにスリットと言われる切れ込みが両方ある。しかも切れ込みが浅いもの、中間的なもの、奥深いものなどいろいろあった。
偉い人になればなるほどこの切れ込みが深くなるとの話も聞いた。今でも私は背の高い女性がチャイナドレスを着ている姿を見るとやはり一瞬目が止まる。やはり魅力に取り付かれているからだと思う。
しかし、残念なことに大連では、冬になると大酒店、飯店にいる女性従業員の中に、股引(大阪弁でパッチ)みたいなものを履いてチャイナドレスを来ている姿をよく見かけるが、これには意気消沈でありイメージが損なわれる思いである。

10.下班と夜のカラオケ

仕事を終え帰宅することを中国語で“下班”というが、帰りも送迎バスで大連市内へ帰宅する従業員と一緒に乗車する方式だ。私は仕事が遅くなりこのバスに乗れず、公司の乗用車(白のクラウン車)でW氏と一緒に帰宅することもたびたびあった。道路は開発区から市内へ帰る各公司の送迎バスで溢れるのである。公司からは約一時間を要して、私は民航大厦へ戻った。 
実はこの公司の通勤バスは、日野自動社製でボディのデザインが開発区公司の中で一番デザインとカラーがよく、かなりよい評判のバスであった。
☆公司での士気高揚スローガン・・・“高々興々上班下班” 開発区にある生産工場の門には殆どこの標語が赤ペンキで書いてある。
 ホテルへ戻り、午後六時半に日本人同士で民航ホテル19階にある日本食レストラン“大和”で食事し、その後よく、隣のラウンジで水割りを飲みながらカラオケを歌い明日の英知を養った?ものである。(カラオケは中国語で“卡拉OK”という)このラウンジでは殆ど日本人駐在者が利用しているが、大連に出張で来た日本人も混じり日本語や中国語のカラオケを歌っている。たまに中国人を見る程度であった。それだけ料金も高かったのである。私も早く中国語の歌を歌えるようになりたいと思ったのはこの時である。ラウンジから見る当時の大連の夜景は真っ暗といってもいいくらいであったが一つだけ大連電視台の明かりが夜の大連市内を輝かせていた。
 民航ホテル19階日本食レストランの入口に、昭和13年~15年頃の大連市内地図が掲げてある。見ると三越や横浜銀行、満鉄等昔の日本人が建設、そして商売していた建物が全て書いてある。聞けば、福岡の辻武治さんが作成しているとかで私も購入しようかと思ったが今日まで買わずしまいであった。このドキュメンタリーを作成するにあたり辻さんに電話してみた。辻さんは、当時は健在でありこの地図を求める電話が全国からくるとのことであった。地図の製本化したものは既になくコピー品なら送ってもらえることで注文した。更に当時の大連を撮影した写真集も発行しており一緒に送ってくれることになったのである。送料含め3千円で送ってくれた。興味ある方は辻さんに電話されてもいいと思う。ただし現在、健在か否かは不明であることを申し伝えておく。

1990年4月中央に民航大厦が見える

11.ホテルでの珍事

大蓮民航大厦で宿泊していたときの休日に服務員(部屋を掃除するお姉さん)と揉めたことがある。ある日曜日の朝、掃除に来たお姉さんが私にわけのわからぬ早口中国語で怒ってきた。私は中国語がチンプンカンプンなので同じホテルに住んでいる知人W氏に電話し来てもらった。原因は髭を剃った後、タオルで顔を拭いたときに血がタオルについていたことで罰金80元を払えと言っているらしい。
 しょうもないことで洗えばよいのだが、私も頭に来て日本語で応戦したもののその中国人女性は日本語がわからない。結果的にホテルの総経理(日本人)に苦情を申したことでこの女性とのいさかいは治まった。総経理の話では過去、部屋内での備品問題(紛失、われる等)が多発しており、服務員に担当している部屋でこのようなことが発生した場合、服務員が弁償することにしたらしい。このことが今回の珍事となったのである。血のついたタオルは洗濯すれば問題ないのに現場を見て、服務員は「これは自分のせいではない」ことを立証するための発言だったのである。結果的に80元の罰金はなかった。 
 また、W氏の後任H氏が煙草を吸っているとき、灰皿を下に落とし割ったときも同じ発言で揉めたことがあったと聞いているが、いやはや自己主張・自己保身の強い国である。

12.街通りでの烏合の衆と鼻水・疸・唾に注意

大連市内の道路を歩いていると、おもしろいくらいにトラブルの場面に遭遇する。何か人との間でトラブルが起きると人が集まる。話題がないのだろう。当事者同士は罵声、口論しているが集合している人達は黙って双方の話に耳を傾け騒ぎが収まるまで帰らない。これがまさに「烏合の衆」である。
 また冬の大蓮市内散歩で気をつけることが一つある。大連の冬はやはり大変寒い。失礼だがどんな綺麗な服装、汚い服装の男女でもよく目にした光景は、あちこちで鼻の一方を押さえ鼻水を思いっきり周囲へ撒き散らすのである。寒いから自然に鼻水が出てくる。人々はティッシュやハンカチといった気の効いたものは持っていない。だから手で除去するのである。唾も同様であちこちに吐き散らす。歩道を歩いているとゴミ箱(中国語で“拉扱箱”という)があるが、その中へ痰を吐く、またホテルの玄関やエレベーターホールにある吸殻箱にも同じ行為をする。
○教訓その1.
①歩いていて近くに中国人がいたら、痰や唾そして鼻水をかけられないように注意すること。
②ホテルのエレベーターホールにある吸殻箱には、白い小石が敷詰められている場合が多く、一見綺麗に見えるが、上述の通り汚いので手で触らないこと。

13.美麗的大連(綺麗な大連の風景)

◇綺麗な海濱路
恵まれた自然環境には大変満足であった。休日にはW氏がよく市内を案内してくれたのである。市内を散策するときは徒歩で、そして海岸を探索するときはタクシー(中国語で“出租汽車”という)を使った。
周りの海(大連湾、黄海、渤海湾)の綺麗さ、海岸道路を走れば特に夏は大変気持ちが良い。海辺では釣りをしている人、沖合を見れば古ぼけた漁船の姿、また大連は中国有数の貿易港であることから海運会社の大型船が数多く停泊している。造船業も盛んであり大連港にある造船公司では新船の建造が盛んであった。
大連港も日本の老人には大変懐かしい港である。昔の大連港入口にある建物の屋根はフットボール型をしていたらしいが現在は八角形?に変わっている。なにはともあれ本当に大連の海辺の景色はすばらしいと思う。
 後から知った言葉だが、「美麗的大連」と「北方的香港」のスローガンである。「美麗的大連(綺麗な大連)」は大連の景色をみると一目瞭然であるが、「北方的香港(字の通り北方の香港)」とは何か?
これは1990年当時、魏冨海市長が在職していたとき、香港の高層建物を見て、是非、大連にも香港のような建物を多く建設して、東北の大都市にする方針を打ち出したことに始まっている。考えれば香港も周囲は海に囲まれその中にいくつもの高層ビルが乱立し、商業が発展している。この政府方針は次期市長になった薄市長時代も受け継がれていた。
◇5月のアカシア(槐花)
毎年5月、アカシア(槐花)が開花したときは、今は亡き石原裕次郎の「♪アカシアの花も~」を口ずさみ労働公園(旧満鉄運動場)や大連鉄路局(旧満鉄本社ビル)、大連鉄道病院(旧満鉄病院)付近を散歩した。
毎年5月20日過ぎからアカシア祭り(槐花節)が開催され、多くの観光客が大連を訪れる。大連のアカシアは“ニセアカシア”と呼ばれる種類らしい。花の色は純白ではなく多少黄色がかった色である。新緑の風が吹くとアカシアの花粉が飛び交い大変風情がある。
 このアカシヤが風に吹かれ散り始めると、本格的に大連の夏がやって来るのである。大連には梅雨がなく北海道の気候なみと言った方がよいと思う。しかし、最近は蒸暑い日が続いているのは、地球温暖化で異常気象が影響しているかもしれない。
◇庶民の公園 労働公園
労働公園内では、年寄りが数人の群がりをあちこちでつくり中国将棋に熱中している。また公園のベンチを借用し“按摩”の商売をする白い服を着た人、更に太極拳をしている老若男女、夜になるとアベックが大勢など様々である。私が中国将棋をしている老人グループを見ていたら、日本語で話し掛けられたことがありビックリした。
 やはり大連には日本語を話す老人が多いと言う話は事実であった。公園内にある蓮池は毎年、夏になると桃色の花が満開となり、蓮の緑と桃色の花がうまく調和し大変綺麗である。
実は、私の父親は昔、満州で満鉄社員であった。舞鶴から船で大連港に着き、市内にある満鉄本社(現在の大連鉄路局)で辞令をもらい、汽車で牡丹江へと向かったことを聞いた。

1991年労働公園でトランプ、将棋に興じる市民

14.日本とのアップルロード

果物は、日本では高く手に入りにく南方産のマンゴやライチ(6月)、そして哈蜜果(ハミグア:夏季)等が沢山出回っている。哈蜜果の特産地は、新彊ウイグルの砂漠でとれるとのこと。最近は、大連近郊で温室栽培による哈蜜果が出ている話も聞いた。但し、色が違う。天然物は黄色、温室栽培物は緑色である。バナナは店の上からタコ見たいに房ごとに吊るしてある。バナナは、外見をみると買う気がしないほど黒ずんでいるものもあるが少し黒くなっている方が甘いのである。バナナは、中国ではまだ高級フルーツの一種である。リンゴは私が子供の頃に食べた「国光リンゴ」で酸っぱく硬い。桃も硬く同じである。
 ここでリンゴの話をするが、大連でリンゴ栽培ができるようになった理由は秋田のリンゴ農園のおじさんが大連に来てリンゴの栽培方法を教えたことから始まったらしい。大連の農村地域である金州区ではリンゴ、桃の栽培が盛んである。そこで日本と大連の「アップルロード」なる物語が出来たのである。さすが歴史的にも日本人にとって近親感のある町だなあとつくづく思った。
最近は富士リンゴが出回ってきた。やはり品種改良しているのだと思う。中にはリンゴに「福」、「寿」などの文字を表現したリンゴも出回っている。

15.販売員を信用しない販売と代金回収

外国人は土産品を買うときは、よく友誼商店へ行った。勿論当時は外国人は兌換券(FEC)しか使えない二重通貨制度だった。日本へ帰国する際は決まって富麗華大酒店の隣にある友誼商店でFEC払いの買い物をしたものである。大連市内には、中国人が決まって利用する国営の商店も数多くあったが殆ど行かなかった。
 この商店は外国人向けに商品を販売しており、一般の商店よりも価格が高く高級商店である。そこでは当時、私は、常にシルクのパンティ(一個当たりの単価が安い))や水虫の薬(土槿皮酊)を買い、土産に持って帰ったものである。買う時は陳列棚から商品を出してもらい、薄っぺらい紙に商品名、単価、金額を店員が書いてくれるが店員の愛想はなく態度横柄きまわりない。
 しかもお金を支払う場所は別であり、その場所へ行き財布からお金を出すと、後ろから財布の中身を覗く人、後ろから手を出し我先に支払う人など、なんと理不尽な態度の人が多いのだろうと呆れたものである。お金を支払った後、その“発票”をもって再度購入した場所へ行きやっと商品がもらえる仕組みである。これも売り場の従業員を信用していない証拠と思えた。

16。二重通貨の国(FECと人民元) ヤミ交換横行

当時、中国においては二重通貨制となっていた。これは外貨管理を円滑に行うために外国人がドルや円から人民元に兌換する時に渡される兌換券である。英語ではForeign Exchange Certificate(FEC)と呼ばれていた。外国人は原則、この兌換券しか持てないことになっていた。つまり中国人は人民元を使い、外国人は兌換券を使うことになっていた。1980年にこの制度が開始されたが1993年12月末で発行停止されているので、現在はないし流通していない。宿泊先の民航大厦の両替所では、パスポートと一緒に日本円を出すと、外国人には全て兌換券に交換してくれた。
 このお金を持って市内の百貨店、市場などで買い物をするが、兌換券を出すと売り側が私に群がってくる。理由は、兌換券と人民元のヤミ交換があり、兌換券を人民元に交換するとき、交換率がよいので人民元が多くもらえることにあった(当時約1.2~1.5倍)。このため兌換券で買い物をすると、売り手の中国人商人は、いつもニコニコ顔で対応してくる。こうやって、中国人商人は、銀行で両替するよりヤミで公式レートより多くの人民元を入手すのである。
 ホテルの外には、日本人とわかると、傍に中国人がやって来て「Change maney」と言って、よく声をかけてくる。これは法律違反であることは事実だが、人治国家である故なんでもありである。
しかし、外国人は市場で人民元も使えた。事実、私は人民元を使い買い物をしたことがあるが、逆に中国人商人から兌換券を持っていないか、よく質問を受けた。

兌換券(FEC)100元札

17.工場の生産管理システム稼動へ(1992年1月)

1989年2月の大連訪問から帰国して国内でパッケージ製品を探しながら検討を行ったのである。要は中国対応出来ていること、中国大連か上海か北京でアフターサービスが出来ることを条件にしたのである。
私は自分で5社(I、F、N、H、T)の製品を調査し、上述の条件を前提にF製パッケージに絞込み、営業部門からの紹介も兼ねて対象パッケージを利用している神戸に本社があるN社を訪問した。いろんな質疑と助言を得て、結果的にF社製の“生産管理系統”に決定したのである。これまで私は、F社との付き合いが無かったが営業部門の協力もあり見積書を作成し現地合弁公司へ関係書類送った。
 その後1990年春、現地合弁公司での董事会(役員会)で“生産管理系統”の採用が正式決定され、いよいよ導入に向け、正式にプロジェクトがスタートした。本件の話が出てきてから約一年であった。プロジェクトメンバーは、日本側では、F社本社営業部、F社の子会社システム担当、私、I社営業部門、中国側ではF社上海、F社香港、現地大連公司のW部長総勢10名であった。システム面では、私が全てコントロールしていたのである。
 現地調達する設備の購入に関しても、中国人従業員と一緒に大連市内の電脳商店へ行き、現物を確認したり、通訳Kさんを通じいろんな情報を入手した。
 一番苦労したのは、なんと言っても電源供給の不安定さであり、単相200Vは問題ないが、突然の停電や電圧の不安定が、時々発生していることを聞き、関連機器に影響を与えないよう、定電圧安定装置(約6時間電源保持)の設置やシステム機器用の電源配線系統も別立てにして工事を指示した。またシステムの仕様変更作業も日本の東京で行ったので日本へ一時帰国したときは、大阪よりも東京滞在の方が多かった。
 この結果、1992年1月から新系統「生産管理システム」の稼動にこぎつけた。このシステム導入で、東京にあるF社、子会社の諸氏、F社上海の諸氏には大変お世話になった。システムの画面は、全て中国語である。勿論F社の「Kシリーズ」も中文OSであった。また、操作は中国人従業員がするので、この公司にいる女性通訳(コンピュータ経験があり、日本語が上手な美人)Kさんを中心にして操作指導も行った。

1992年当時の電子計算機系統

18.新会社設立計画と開業、そして赴任

大連での長期出張中に以外な日系企業の悩みを多くの駐在日本人から聞いた。日本から持ち込んだパソコントラブルや電話機システムの不便さなど当時の日系企業に常駐している日本人は不満だらけであった。
 そこで、日系企業がそんなに困っているなら大連で新事業の公司を設立して日系企業に支援できるのではないかと考え、4回目の出張を終え、帰国したときだったが、新規事業を大連で行う構想をお土産にして、日本の本社の関係部署に上述の内容を切り出した。私も参加して内部検討を行い、また合弁相手先調査を行った。
このとき、私の上部管理者であるW常務が、営業と一緒に初めて大連を訪問し、可能性と相手先を調査したのである。その後、大連市政府直轄の信息中心(大連信息工程公司)と合弁で公司設立構想がまとまり、経営会議で決裁がおりたのである。この間、約半年くらいの短い期間であった。
 新会社の合弁設立調印式は、1992年6月に東京(帝国ホテル)で行われ、大連から合弁相手先の大連信息工程中心(大連市政府系)メンバー3名が参加して、無事調印が行われたのである。
このときから、正式設立に向け、大連側で駐在員事務所と、この相手先公司とで諸手続きが開始された。この結果、1992年8月に正式に新合弁公司の営業許可がおり、設立されたのである。資本金は、日本円に換算し3千万円(人民元換算では120万RMB)であった。
 新公司の常駐日本側代表責任者は、言いだっしぺの私になったが、本社内では辞令をいつもらえるのか不安もあり、上司T部長に相談したら、「赴任日は自分できめてよい」と言われ、変な人事異動だと思いながら結局、自分の仕事の段取りや業務引継を11月末で終了し、1992年12月1日付けで大連へ赴任する計画書をつくり上司T部長に報告した。その内容が本社人事部門に伝わり、大連の新公司へ赴任する辞令をもらったのは、11月中旬であった。かくして1992年12月1日が私の現地赴任の日であった。当日の大阪は、大変天気が良く、私が大連へ赴任する格好の日となっていたが、現地大連に着くと小雪が降る寒い日であった。大連空港には、定刻の現地時間午後02:20到着したが、あいにくのみぞれ模様であり、大変寒かった。例の如く、暗い空港の建物内で入国手続きを無事通過し、出迎えの公司の中国人社長や駐在員事務所の人と会い、車でとりあえず、先に宿泊先である大連駅前にある“九州暇日飯店(Holiday Inn)へ向かった。九州暇日飯店玄関では、新公司の社員3名(Z、W、Zさん)が出迎えてくれていた。この日から私は完全に中国での生活がスタートしたのである。

19.初めて迎えた大連での正月と仕事開始

中国は旧正月が本来の正月である。年末年始休暇は3日間であった。その期間、中国人スタッフは私に大変気を使ってくれ、自宅に招待してくれた。一軒目は星海公園近くにあるZ氏の公萬であり、二軒目は八一路近くにあるW氏のアパートだった。初めて、中国人が生活する家及び家の中を見たのである。
 玄関扉には“福達(福倒)の飾りがベタベタ貼ってある。半分興味本位に部屋の中を見たが、日本と違い、畳がなく、椅子机・テーブル・ベッドの生活であり、生活様式は西洋式スタイルだった。Z氏、W氏との会話は、英語での会話か通訳を通じ、日本語・中国語を交えた日中交流であった。特にZ氏はドイツ留学経験もあり英語、ドイツ語が得意であった。このとき、初めて飲んだ“加飯酒”の味が今でも私の好きな紹興酒の一つである。白酒も悪くはない。また、日本で食べるちまきに似たものや赤貝の刺身は大変美味しかった。
 トイレ(厠所)もびっくりした。W氏宅では、便器(和式)の上を見るとシャワーノズルが出ている。
用を足しながら、どうしてここにシャワーノズルがあるのか、と思い考えたらトイレとシャワーが兼用になっており、シャワーを使ったら湯?水?は便器に流れる仕組みであった。これは大変合理的手法だと思ったのである。当時は、家にトイレ(中国語で“厠所”という)がある家はまだ恵まれているとのことだったことも後でわかった。
 Z氏の家では、洋式トイレがあり、更に別室にさりげなく浴槽が床においてあった。この浴槽のスタイルは、私が大学時代にオードリヘプバーン主演映画で見た入浴シーンのスタイルと同じであった。この家庭も恵まれている方ではないかと思った。つまりトイレも風呂もない家庭が多く、トイレは、近くの公衆トイレ(公共厠所という)へ行く、風呂は近くの銭湯(浴池という)に行く家庭が多いと聞いていたのである。
 本格的に仕事を開始したのは正月明けの4日からである。日本からT社の技術者K氏に来てもらい、開発区にある日系企業O社はじめ、3社の交換機設置と通信工事を中国人スタッフに技術指導しながら行った。約1ヶ月間のOJTを中心として現場での教育を行いながら、中国人スタッフは成長していった。やはり日本人よりも頭が賢く覚えが早いと思ったのもこのときである。

20.中国人と初めて衝突

正月空けの1993年2月に入り、早くもZ氏と衝突した。思うにわる賢い作戦で私に決断を迫ったのである。
中国で仕事した経験のある人なら誰でも遭遇する事であった。つまり、当時は”電話・車・家”のいわゆる「三種の神器」争奪戦の問題である。目的を実現させるために、会計担当を味方につけ、相談相手である私に考える時間を与えず、しかも中国事情がわからない私を相手にすることは、Z氏にとって、格好の材料になっていたのである。その方式は以下の通りであった。
       ①事前に裏打合せが出来ている。
       ②相談受けた日は金曜日午後5:00、明日は休み。
       ③金の支払は明日、土曜日にする。
       ④仲介者に対しワイロがあるだろう。
       ⑤公司の経費で処理させる(既に会計とは調整済み)。
       ⑥即決判断を求めてくる。
職権を乱用し、権利を勝ち取る私利私欲が強く、如何に作戦を立て相手に有無を言わせないように計画・実行をすることがうまいのである。しかし、見え見えの作戦であったためと、私は理不尽なことが嫌いな性格ゆえ激論をした。しかも、この時のZ氏の発言には私に対する侮辱もあったため断固反対しとりあえず保留にした。
 後で、駐在員事務所所長へ報告し意見を確認したら、私が逆に叱られたことを覚えている。勿論、他の合弁公司の日本人経営者にも相談した。
決まって出て来る言葉は、「あんたところの出資比率と公司の経営権のとり方がおかしい、55:45なら、日本側が日常の経営権をとるべきだ。逆転しているからあんたもかなりしんどいはずだ。」であった。やはりそうかと思いがらもこの問題は結局、認めざるを得なかったのであった。
 この衝突事件以来、私は駐在している日本人総経理等諸先輩からいろんな問題(風土、習慣、気質等)をとことん聞き、少し中国・中国人に対し見方を変えるようになった。要は、私も駐在で大連にいるのだから「合にいれば合に従う」ことにしたのである。“互相理解”である。窓から外の景色(大連電視台など)を見ながら、不満であったが納得したことを覚えている。

1992年事務所から電視台を見る

21.遼寧省財政局から表彰

1992年度は、変則決算処理とし、1993年度が新公司の事業一年が過ぎ、決算報告書や税金関係の書類を確認し、関係先へ提出した。中国での会計年度期間は1月~12月である。
また外国との合弁公司は「二免三減」の優遇税制の適用を受ける特典がある。要は二年間企業所得税を免税する、その後三年間は企業所得税を50%さえ払えばよいのである。勿論利益がでていることが前提である。1992年度は開業時償却のみで決算をしたが、1993年度決算は利益が出た。
 申告書を財政局へ提出した後、しばらくしてから大連日報、財務日報に遼寧省の優良公司一覧が公表された。その中になんと、私が仕事している公司名が掲載されていた。これは、どんな意味かわからずスタッフに確認した。当時一般的に合弁公司は三年間赤字が普通だが、この公司は決算2年目で、はやくも利益計上したことが理由らしい。この話は、当然日本の親会社へ新聞内容をコピーし報告したが、先代に中国進出している合弁公司でも例がなく、当時のS社長からえらく誉められたものである。
 生産工場のように土地、建物など多額の資金が必要であり、長期償却が必要な公司ではなく、頭脳で勝負する公司であるため、経費の殆どは人件費である。多額の売上が継続できれば、必然的に利益が出る仕組みの公司経営であった。勿論、日本本社からの支援もあったことも要因である。

22.中国式葬儀に参列

中国人スタッフの親が亡くなって、初めて中国式の葬儀に参列した。大連市内では殆ど火葬を行っているようだった。葬儀参列について日本人の先輩に聞いたが、誰も参列したことがなく日本のような喪服、数珠等をどうしているか不明であった。中国人スタッフに聞くと通常の服装でいいとのことであったのでその通りにした。また日本の“花輪”のようなものは事前にスタッフから聞いていたので公司の名前、総経理名、私で出しておいた。
 会場では親族だと思うが、麻色の腰掛け?のようなものを腰に着け、更にその上に白いヒモのような帯びを付け談笑していた。やがて棺が正面玄関奥の広場に運ばれると、全員が急に大声で泣き叫びはじめた。行動が180度変化したのにはビックリした。また棺の周りを親族が花を持って、ぐるぐる回り始めたのである。お経も何もない。やがて棺は奥の方へ行ってしまった。この間約30分であった。私は大変貴重な体験をしたものだと思った。
 また、葬儀を行った時、マイクロバスに親族が乗り、市内を走る光景を何回も見た。何故わかるのか?つまり、マイクロバスの車窓からドーナツ状の茶色の紙切れを、ばら撒きながら走っているのですぐわかるのである。我々日本人からみれば、どうみてもゴミを撒き散らしているとしかみえないのである。

23.中国式結婚披露宴に参列

今度は一転してめでたい話である。中国式結婚披露宴に2回出席したことがある。いずれも新婦側からの招待状である。結婚披露宴の仕方も大変興味あったので喜んで出席した。当然、祝儀は出したのである。勿論、服装は自由である。日本みたいに黒の礼服はない。中国人スタッフに聞くと、日本人が着る黒い礼服は異様に見えるとのことである(習慣、文化の違いである)。
 披露宴は、日本と同じく会食方式で行われるが、新郎側新婦側それぞれの代表の挨拶もなく、来賓挨拶程度で、後はそれぞれが自由にお祝いの言葉を述べる、また各テーブルにはキャンドルはなかった。そのかわり、新郎新婦が煙草“囍”(喜を二つ重ねてある=ダブルハピネス)を持ち、各人に火をつけて回るのであった。料理は一般的な内容であり帰りの手土産は“アメ”があったり、お餅・お菓子があったりした。そんな意味では派手な披露宴ではなかったと思う。
 街を歩いていると、ベンツやアウディ車に花飾りをふんだんに着け、更に大型ビデオを持った人が、車の窓から身体半分ほど外へ乗り出した格好で、前方から後方にいる新郎新婦の車を撮影している光景やドレス(赤系統が多い)姿の新婦が新郎をエスコートしている光景もよく見た。当初はこれが中国式だと思っていたが全てはそうではなかったのである。裕福な人達の場合は、かなり派手に行うことを聞かされた。

大連での結婚式に使う派手な車

24.中国語の特訓

当時、公司には通訳がおり安心していたが、時間が経過するにつれ疑問を感じ始めたのある。中国人スタッフとの会話は通訳を介して行っていたが、話している内容を簡略したり、挙句の果ては、私の言っている内容とは異なる話をしたり、通訳自体をサポタージュしたりで、通訳の会話に対し不信感を持つようになった。更に通訳の誤解で口論になったこともあった。この通訳Tは貿易業務も担当していたが、いつも税関とはうまくいかず日本から輸入した機材の引き取りでトラブルを起こし、別のスタッフWさんが税関へ行って事なきを得たことが度々あった。要は要領が悪い通訳であったのである。結果的にTに辞めてもらった。その後は、営業部門にいたJさんに通訳を依頼したのであるが、営業が多忙でなかなか思うようにならなかったのである。
 私の経験で言うと、通訳は頭の賢い人がよい。うまく機転を効かしてくれるのである。私は、日本から中国語会話の本を持参してきてはいたが、自己学習の限界を感じ、駐在員事務所に頼んで中国語の講師を探してもらった。その人と面談した後、九州飯店の私の部屋で、個人教授してもらうことを開始したのである。
先生は大連外国語学院の女子大生Rさん(旅順出身)であり、彼女は学校で日本語を勉強していた。私の勝手な解釈で、本来双方が日本語・中国語を勉強するわけだから、冗談で料金はチャラにしようと言ったが、月額料金100元(今の金額で1500円)を支払った。回数は3回/週、1.5時間/回であった。
 当初は、日本で買った中国語教科書(中国語が面白いほど身につく本)通りに教育してもらっていたが、これも納得いかず、途中で教育方法を変えた。つまり、公司で仕事しているとき、中国人スタッフとの話で、こんなときは中国語でどういうかを日本語で常にメモをとって、その内容について中国語を勉強したのである。これが私にとって本当の実践的学習法であった。
 教えてもらう回数が増加するにつれ、彼女は直ぐ帰らなくなった。私の部屋で日本のNHK番組TVを見て、日本語を盛んに話してくる。また外へ食事に連れていったり、遅くなったときは、ホテルのタクシーで学院の寮へ送り届けたりで結構、気をつかったのである。ホテルの規則は、部屋に他人を入れるとき、必ず部屋のドアを開けておくことになっている。このため、私の部屋の奥の方にある部屋の住人は必ず、私の部屋の中を見ていく。しまいには、見られることがいやになり、半開状態にしていたことを思い出している。
 約8ヶ月間の教育を受けていたが、そのうち彼女は日本へ行くのでしばらく中止したいと申し出があり、その後は、再度自己学習となった。また公司では、よきスタッフの支援もあり自分のなまっている発音等の指導も受けた。これが中国に土着する方向に傾いたのかも知れない。私はその後、半分日本人、半分中国人として行動するようになった。私の筆名(ペンネーム)は孫高一”である。いまでもこの筆名を名乗っている。言っておくが大連弁は山東省の方言である。

25.公司外部活動(工会慰安会)

毎年、夏になると労働活動と称して社員全員が外部へ出て活動を行っている。これは組合(中国語で“工会”という)活動の一環として行っている。大変興味があったのでと言うより、副総経理だから参加しなければならないと思い、スタッフと一緒に出かけた。要は会社の慰安会である。
 1993年夏は、外国人禁止の旅順近くの海辺で海水浴と食事をした。私は日本人なので、活動場所では喋るなと言われ、内心ドキドキしたが何のことはない。周りにはスタッフばかりなので、好きなように麦酒を飲みながら話した。皆は暑いので海の中へ入っている。更衣室はないので砂浜で、皆(男も女も)周りを気にせず水着に着替えている。私の方が気になったのが正直なところである。 
 1994年夏は、三上島へスタッフ全員、船で出かけた。大連港から約1時間の島へ一泊旅行である。島に着いたら大変気持ちがよく、景色も最高、事前に準備して持って来た釣竿を使い魚釣りを行った。しかし根がかりばかりで釣り針がすぐ切れる。海底をよく見ると昆布が大繁殖しているではないか。根がかりする都度、中国人スタッフが海に潜り、助けてくれた。魚の成果はなしだった。
夕方になり、冷えていない瓶麦酒をラッパ飲みしながら、持参した食品で食事、その後は、何もすることがないので皆集まり会話が始まった。そのうち私は眠くなり寝てしまったが、男女関係なくザコ寝である。電気がないため真っ暗。海辺には松明を燃やし明かりとしていた。
 中国の人は、夏でも冷えていない(常温?)麦酒を飲む。つまり冷たいものは、腹を壊すとのことで嫌うのである。外国人が出入りする高級ホテルでは麦酒を冷やしているが、一般の店では夏でも冷やしていない。冷凍ケースはあるが電源が入っていない。こんな麦酒は美味しくない。当時、中国国内にある麦酒製造公司は、約860社である。日本とは比較できないくらい麦酒製造公司が多いのである。麦酒の製造工程問題としか言えない変な例がかなりみられた。
 ①麦酒瓶が傾いている。
 ②一本毎に入っている麦酒の量が、よく見るとそれぞれ異なる。
 ③各麦酒会社毎に、容量がバラバラである。
容量がバラバラなのは、日本のように麦酒瓶は633ml、500mlと決まっているが規定がないのだろう。瓶が傾いているとか一本の瓶に入っている麦酒の量が均一でないことは、製造設備の品質管理面のズサンさが現れていると思う。

26.馬に乗った美人女性公安官

1995年頃から、暖かくなると大連市内に変な公安官が出現し始めたのである。馬(普通の馬や駄馬ではなく足が大変細くスラッとしている競走馬)に乗り、しかも、今までの公安が着ている服装ではなく、スッキリした紺色の制服を着た美人女性公安官である。“公安馬”が、大連市内の有名な広場(中山広場、友好広場等)やメイン道路である中山路を闊歩するのである。
 ここでいう公安とは日本でいう公安局とは異なり一般的に言う警察のことである。但し、公安でもランクがあり、中央政府の公安は中国国家を転覆させる等の重大政治犯を監視する公安である。田舎へ行けば公安は村のお巡りさんである。
 この馬に乗った女性公安は、聞くと当時の薄大連市長(薄一波の息子、その後、遼寧省省長を歴任し3月に中央政府の商務相へ出世している)が、大連を“北方香港”にするスローガンを唱っており、香港から馬5頭を買付けして大連へ持ってきたらしいことがわかった。(それ以後、十数頭が大連公安局にいる)2003年の10月に大連を訪問したときにも、私はこの馬に乗った公安を見ている。今や大連の風物詩になっている。

大連の女性交通騎馬隊
大連の女性交通公安

27.大連市内での直撃話

①パスポートへの疑い
 市内散歩中に小便がしたくなり、我慢できず民家の軒先でやってしまった。スッとした途端に、後ろから取り囲まれた。私は「我不是中国人、日本人」と叫び、難を逃れようと思い、パスポートまで見せたが信用しない。挙句の果ては「このパスポートは偽物だろう」と言われたのである。
結果的に、一緒にいた中国人スタッフが私を助けてくれたので無事だった。スタッフは、私に「こんなときは中国語を喋るな」と注意されたことを思いだす。
②強盗を目撃
 天津街で歩いているとき、目の前で強盗を目撃した。強盗は3人組で、狙われたのは天津街で記念撮影をしていた日本人老女性5人組。強盗はそれぞれ役割を分担しカメラを盗む者、走って盗品受ける者、一緒に走る者である。私もあっけにとられ、なにぶんアッという間の出来事であったため、何も出来なかった。その老女性達は、私の宿泊先である九州飯店と同じホテルであった。フロントへ行っても没有方法とかで泣き寝入り状態であった。
③露店をぶっ壊す公安サイドカー
 同じく、天津街を歩いているとき、サイドカーに乗った私服公安(格好をみるとランニングシャツ一枚、下は短パン、草履履きの農村のおっさんとしか見えない姿)一人が突然、露天商の簡易店舗を、サイドカーごとぶつけ、足で蹴散らし始めた。何事かと思い、よく見ると、数店舗が一緒に壊されている。後に中国人スタッフに聞いてわかったが、もぐり商売をしている店を狙ってやっているらしい。
その後、何度か同じ光景を目撃したが、敵もさることながら、事前に見張りが連絡してくるようになり、各露店は急に店じまいをし、逃げていくようになった。露店も必死である。
④偽許可証?持つ罰金徴収者
 大連駅前で吸煙している人の後ろで、ポイ捨て現行犯を見つけ罰金をとる偽者?である。私も二度払わせられたが、同じくやられた中国人は口論の末、不払い行動である。罰金10元の意味は何だろうか?(小遣い稼ぎ)偽者グループがおり、首からは、銭入れバック(昔、バスの車掌が首から提げていた切符入れのような黒バック)をぶら下げている。後で、中国人スタッフに聞くと、やはり偽物罰金徴収者がいることがわかった。市政府の偽許可証(市政府の印章付証明書)を首からぶら下げているので我々にはわからない。「中国人でもお金を払わないのに、何故、あなたはお金を払うのか、アホ」と言われたことを覚えている。
⑤タクシー運転手のマナーの悪さ
 出租汽車(タクシー)に乗ると、料金メータを倒さない運転手や一人でタクシー乗っていたら、途中から助手席に別人を乗せる運転手、車の床に穴があいており、雨で土砂降りの時その穴から泥水が入ってくるタクシーなどマナーや車両整備不良としかいいようのないタクシーが多かった。夏になるとエアコンのついていないタクシーの運転手は、下着一枚で仕事している。なかには、上半身裸の運転手もいる。マナーの悪さは嫌になる。
 私は一番嫌なことがあった。真夏のタクシーに乗ると、必ずと言っていいほど、シートにタオルやバスタオル?が敷いてある。このシートが汚く、汗で臭くウンザリしたものである。当然、毎日交換せず使っているため気持ちが悪い。中には白い自動車用のシートカバーをつけているタクシーもあるがシミが多く、グチャクチャであり気持ちがわるい。
 二人乗りのタクシーは気をつけること(特に夜)だ。白タクの横行(特に大連空港であった)もあった。他に車のタイヤがパンクしたとき客も一緒に手伝っている光景を何回も見ている。付け加えておくが、中には優しい対応をする運転手やボロ車でも車内を綺麗にしている運転手もいる。
⑥料金が異なる公共機関
 夏は、空調付きと空調無しではタクシー料金が異なる。公共バスも空調付きと空調無しでは料金が異なっている。バスは前面に大きな文字で「空調」と表示されているからわかるが、タクシーは窓を開けて走っている車は、エアコンがないと判断していた。(中国人スタッフからの指導でした)
⑦会社の車で白タク・・小遣い稼ぎ
 私が在籍していた公司で、公司設立当初から採用していた運転手が公司の車(コロナ)を使い、白タクしていた情報が入った。当初は、証拠集めのため黙認していた。しかしガソリン伝票の消費が早く、常に毎週月曜日になると、ガソリン伝票の要求が多くなり、やはりこれはおかしいと判断。私は土、日で車が必要なときは事前に運転手に依頼していたが、私が休日に依頼していないにも係らずであった。当然、ガソリンも公司費用であるため、いよいよ実行するときがきたので証拠を突きつけてクビにしたことがある。
⑧氷点下17℃の冬
 1995年1月の真冬に、氷点下17℃を経験した。外に出るととにかく顔、手、耳が痛い。鼻毛が凍ってきた。歩いている中国人は、あちこちで、手で鼻を押さえて鼻汁を飛ばしている。こういうときは、絶対に傍に寄らないことだ。他の人の服などに鼻汁をかけ、道端でケンカしている光景がよくある。1時間くらいの買い物の後にホテルに帰り、身体を温めるためブランデーのストレートを一杯飲んだがぜんぜん温まらない。むしろブランデーが喉、胃の中を通過していく状態がよくわかるのである。結局、私はブランデーをストレートで5杯飲んだが全く酔わないし、身体が温まらない。風呂に入り汗を出した後、今度は麦酒を飲んだが、いっこうに酔わないのである。ロシア人がウオッカをよく飲む理由がわかった。
⑨凍結道路をノーマルタイヤで走行
 真冬の日中は、太陽が出ていてもなにぶん氷点下である。雪が降ったときは、道路の雪は車のタイヤで踏み固められ、凍結しアイスバーン状態である。しかも、ところどころが氷の岩状態でデコボコになっている。その道路をノーマルタイヤで走るから危険きまわりない。当時はスパイクタイヤやタイヤチェーンはなかったが今でも同じ状態らしい。しかし運転手は慣れたもので、坂道などは平気で登っていく。しかし途中で止まってしまうが、再度バックして加速して登っていく。一車線の坂道道路では、対向車が下りて来ても強引に登って行き、下る車は立ち往生し、挙句の果ては、運転手同士で口論である。この運転技術力には、さすが北陸出身の私でも参った。
⑩市場でのバトル
 私は、休日に市場(栄盛市場、自由市場)へ出かけ、食品や煙草、麦酒などを買ったが、この買い物する駆け引きがおもしろいが、頭に来て管理処へ訴えたこともあった。計り売りの食品は全て500g単位である(一斤という)その例
○同じ店で買うと、だんだん値段が上がっていくか数量がごまかされる。
 卵一個の差、ネギ一本の差、天稟秤の錘をごまかすなど。
○たまに違う店で食品を買うと、いつも買っていた店のお婆さんが怒ってくる。なぜ怒るのか?
 「あんたはわしの客だ、何故他で買うのか」と。どこで買ってもいいはず。
○店の叔母さんは、怒ると大声で罵声を浴びせる。私は何か悪いことをした? 
 どうも勝手に、先に商品を手で触ったことが気に食わないらしい。
○こちらも頭に来て、各店を管理している事務所へ文句を言いに行ったら、一緒に、購入した店でバトル開始、挙句の果て、関係のない店の人間が出てきて私は悪者にされた。
 それでもへこたれない私は応戦。しかし早口の中国語と大連弁には疲れた。
○煙草を買っている店では、いつも2カートン単位で買っているので、いつもライターをサービスしてくれた。この叔母さんは文句いわないので仲良かった。
○釣餌を買うため、民航ホテルの裏で毎週土、日に営業している青空市場へ何回となく行った。アオイソメを品定めしていたら、既に死んだアオイソメを高額でふっかけてきた。
 気に食わないので、他の場所へ行ったら、先程の男が、今度は生きたイソメを持ってきてこれを買えと。気分が悪いから拒否し「不要」と言った。
⑪夜のタクシーで一人乗車は危険
 大連経済開発区で夜遅くまで友人と飲んで、市内のホテルへ帰るときの出来事は一瞬、ヒヤリだった。
運転手に「九州飯店まで」と伝えて一路大連市内方面を走った。開発区を出たのちタクシーは右折をし、暗い民家のない怪しい方向へ向かった。そして、車載マイクで、早口の大連弁を相手と話している。これはおかしい。運転手に「どこへ行くのか、路が間違っている」と言ったら、この路が近道であると。これは全くのウソを言っていることがわかったので、「毎日開発区へ市内から通勤しているので私も道を知っているが、今の道はおかしい」と言ったら、運転手は、もとの広い道路に出始めたのである。その後は、いつもの道路を走り、一時間後に無事、ホテルに着いた。多分、中国語が出来なければ、変な場所へ連れて行かれ、根こそぎやられていたかもしれない。いろんな事件が起きているので、夜のタクシー一人乗りは注意。
⑫メータを倒さないタクシー運転手とバトル
 メータを倒さないで走るタクシーが多かった。いつも慣れている区間なら黙って、相当額を払えば運転手は何も言わない。しかし中には法外な料金を請求してくる運転手がいる。ある夜、大連空港からホテルまでタクシーを利用し、ホテルに着いたとき、100元を請求された。
メータを倒さないときは、黙ってタクシーに乗っていることが秘訣であり、ホテルに着いてから、黙って料金を払うか、バトルを開始することがより安全である。
 私は、何故100元なのか聞きながら、直ぐタクシーを降り、車の前方で手にナンバーを書く真似をし、以前から持っていた「大連日報のクレーム連絡所案内」記事を運転手に見せ、「この記事を知っているか?法外料金を請求すると運転手に罰金、そして免許剥奪すると書いてあるぞ」と見せ、脅かしをかけたのである。そのうちに、知人のホテルボーイが来て、私に加勢してくれ、30元を支払って事なきを得た。
手の内側に字を書く癖は、中国人がよくやる光景である。つまり書く紙がないときに非常に便利な方法である。
⑬一時帰国したときのホテルの部屋に注意
 中国駐在者が、一時帰国でホテルをあけることがよくある。このときにいろんな事象が発生している。自分の部屋の鍵をして帰国しても、服務員は合鍵を持っており、自由に部屋に出入りできる。
○一時帰国中のホテルの部屋は、掃除する服務員がよくわかっているので使い放題である。
服務員達が風呂に入り、日本から持ち込んでいるシャンプー、リンスを勝手に使用している。大連へ帰ってみると全て空っぽとなっていた例。これは、服務員の特権であり、あちこちで発生していた。
○日本から持ち込んでいた急須が消えた。中には、急須の中にあるネットだけが無くなっていた例。
○家族滞在者が一時帰国し、大連へ戻ったら家の中にあった家財道具が全てなくなっていた日本人専用の山荘での例。この話は、近所に住む日本人は、日本へ帰国するのかなと思っていた。明らかに入口の保安員と業者が結託し、犯行に及んでいる。
○服務員が食器を洗ってくれているが、食器洗い洗剤を使わず水だけで洗っておいてある。油汚れなどお構いなしの例。私は絶対に服務員に洗わせなかった。当時は、洗剤を使って食器を洗う習慣がなかった。
○下着などを洗濯し、部屋の中で干しておくと、服務員がキチンとたたんでしまってくれていたよい例。これは、逆に怪しまれるかも。服務員との関係。
○部屋の工事で電気技術者などが入ってきて、ホテルの部屋へ戻ると、部屋の金庫の鍵が壊されていた。明らかに開けて盗もうとした気配がある。これは、服務員と電気技術者が結託している。
⑭中国人を味方にする
 私は、ホテルの部屋を掃除してくれる従業員や保安の人間、そしてホテルのタクシー運転手とは、下記ののような対応をしたことにより、人間関係が大変よかった。このことから事件に遭遇したケースは殆どなかった。つまり自分を守るためにはどのようにして中国人を味方にするかである。

雪化粧の中山広場1996.12
冬の南山街2006.12

28.交通事故で引取出来ない公司車

公司の運転手(中国語で“司机”という)が相手の車に接触され、車の一部破損事故が二度あった。このため相手の費用負担で、修理工場にて修理してもらうまでは仕方なく服務公司の紹介で代車を借りて営業活動を行なわざるをえなかった。
 そろそろ車の修理が完了しているだろうと思い、運転手に確認したら「修理は完了しているが、車はまだ引取れない」と言う。何故か、つまり加害者が修理費用を払っていないからであることがわかった。日本では考えられない事態である。
 そこで、私は、運転手にその修理工場へ連れて行ってもらい、工場の親父と話した(ヘタな中国語で)が駄目であった。この親父に対し中国語ができない私は、しかもイライラが募り、公司のZ氏に怒りをぶつけたのである。しかし“没有方法”ばかり。私は、痺れをきらし運転手に「今回の事故の加害者宅へ連れて行け」と言って加害者宅まで行った。本人と話したがここでも「没有銭」(金がない)発言で逃げようとしたため、脅かしをかけざるを得ない行動に出たのである(本当はここまでしたくなかったが)3日以内に支払う約束をやっと取付け、毎日、運転手に確認させて無事営業車を回収した。この期間、約20日間で服務公司の代車費用が2000元かかった。
 更に、別の接触事故では、親会社であるK集団公司の中国人知人からリンカーン車を借りて、一時間もかけて修理工場へ出かけ、玄関に横付けして、早く車を回収したこともある。
修理済の車がなかなか引き取れない仕組みがわかった。交通事故車両の修理工場と公安が結託しており、加害者が修理代を支払った証明書を、修理工場経由で公安局へ出していなければ、修理完了していても被害者の車は引き取りができないことであった。

29.飛行場と飛行機の中での出来事

◇北京空港で、自分の行先案内の飛行機便名が消えた。おろおろしながら、どの搭乗口か探すが、分からない。大きな空港では特に注意が必要。この時の注意点(鉄則)は以下の通りである。
 ①飛行場では、まだ時間があるからと言って寝てはいけない。
 ②常に自分と同じ行先、同じ色の搭乗券を持っている中国人の傍から離れてはいけない。
 ③他の場所へ動かないこと。
◇飛行機の座席は、当然のことながら事前に座る席が決まっているが、機内に入ってびっくり。
 ①予め決められた座席だが、他人が予約している席でもお構いなしに座る。
 ②通路に空き缶を投げる乗客。
 ③座席の上にある荷物入れに置いた他人の荷物を、引っ張り出し自分の荷物を入れる乗客。
 ④平気で喫煙する乗客。
 ⑤客室乗務員は、ファーストクラス(実はビジネスクラス並みの席)に座り平気で食事をする光景。
 ⑥着陸したら拍手喝采する乗客。
 ⑦空姐が乗客に渡すおしぼり(簡易ティッシュ)を、放り投げるような行動。
  しかも愛想がなく、ポケットに手を突っ込んで歩く。
  もっとも日本の空姐の笑顔は、造り笑顔だからかえってしらじらしい時がある。
 ⑧空港での待機中、点検でビス一本を紛失?余った?
  しかし没問題で飛行機は、そのまま離陸したとか(さる航空会社の整備員筋からの話)。
 ⑨座席に座れば、安全ベルトの片方がないシート。
  しかも客同士でシートベルトの奪い合いは聞いたことがない。

桂林空港で1994年9月

30.国際電話での出来事

当時、国際電話での通話内容は全て盗聴されていたのである。当時の中国にある交換機は、殆どクロスバー交換機であり、日本のような電子交換機ではなかった。
どうして盗聴されていることがわかるか。即ち、日本と通話しているときに急にエコーが発生し声が共鳴する場合、また双方で中国の悪口を言っていたら突然、不通(回線断)になるときがそうである。つまり郵電局の盗聴担当、実は公安担当が通話内容を聞いているのであった。
 中国も電子交換機の導入が進み現在は全て電子化されているが、以前みたいに簡単には盗聴されているかどうかわからなくなってしまった。しかし今でも盗聴は継続されていると思った方がよい。
電子交換機の設備機械などの費用は、殆ど日本の円借款で行われている。それにしても中国との国際電話料金は、他国と比較すれば高い。中国郵電部よ早く料金を安くして欲しいものである。
 少し脱線するが、通信の関連で面白い話があった。
大連の付近に“長海島”がある。ここは人民解放軍が管理している島であるから、一般人特に外国人は行けなかった。この付近で、漁業を営む猟師が魚とりをやめ、海底に敷設してある通信ケーブルを引上げ、切断し販売したら、魚を売る金額よりかなり高く売れたらしい。この話を聞いた他の漁民も、我先に、通信ケーブルを引上げ販売していたが公安局に全員逮捕されたのである。
 つまり、島の人民解放軍通信担当から、最近通信できなくなったとの話から人民解放軍が調査していたところ、通信ケーブルが切断されていることがわかり、公安に取締り依頼をしたのである。
このため、通信ケーブル方式から無線設備方式に変える計画が出てきて、私の公司に、日本製の無線設備一式の話が入ってきた。しかし、あまりにも高額であったためこのビジネスは、いつのまにか消滅したことがある。

31.公司経営と配当

1)配当発言で日本本社社長からカツ
 1992年度決算は変則決算。1993年度から中国会計制度に基づいた一年間(1月~12月)決算であった。
経営方針は、まず大連で地盤を固めることにあり日系企業、日本の会社の駐在員事務所、銀行等を片っ端から訪問し売り込みをかけた。勿論、悩みを解決するための武器を持ってである。また新規進出企業の情報は、日本からの情報、お世話になっているS銀行からの情報(紹介頂いた会社も多くあった)、更に私は毎日「大連日報」を読んだ(勿論中国語である)。
 大連日報に工商行政管理局が出している開業届案内があり、その中で日中合弁、独資会社をマークし日本人役員がいるかどうかをチェックし、メモってその公司と電話してアポを取った。
1995年頃には、大連へ進出している日系企業数は約260社、日本人は約2千人ほどになっていたのである。このような営業の事前行動の結果、売上、公司の営業利益は、年々増加し、現地の顧客数も増加していった。お陰で、1995年度の全体売上に占める日系企業売上比率は95%に達し、とうとう1995年度決算で配当を実施した。
 配当を行うには、日本本社の承認が必要であったため、毎年5月に開催される海外責任者会議(海外にある現地法人の責任者が年度事業報告と次年度見込みなどを発表する席)で、私が先に配当案を提案したら、当時のS社長から怒られたことを記憶している。「配当は株主が決定するものだ」ということであった。しかし、結果的に配当率10%で行った。

32.中国の戸籍謄本「档案」

中国で会社の責任者となって、人事上不思議なことがある。中国人全員が対象となる戸籍管理書類:档案である。档案とは何かを調べると以下の意味が書かれている。「档案という言葉は、本来保存書類や古文書という意味で使われていたが、1921年に中国共産党が創立してから、共産党員と軍隊を対象にした「身上調書」として使われるようになり、中国開放後に、その対象が一般大衆にまで拡大された」と。
 日本との違いを言えば、この档案は、役所や企業だけに止まらず、学校に入学してから死亡するまで、一生ついて回ることである。ここまでは、中国人だけが対象かと思えばとんでもない事実が出てきた。
つまり、我々日本人も含む外国人も例外ではなく、駐在者は勿論のこと、ビザを取得した出張者も公安当局のファイルの対象となっているようだ。ということは、私も中国でこの档案にデータが残っていることになる。
例えば、ある人の話によれば、広州交易会に参加してから退職するまで、北京市公安局外事処に「档案」と朱色で印刷された大きな茶封筒(紐つき)に資料一式が保存されているようである。
一時期、マイクロフィルム化へ向かったが、現在ではIT化が進み、公安当局の責任者ならPCから検索できると聞いている。また、档案袋はインターネットで購入できる(30円)
 勿論、本人には一切公開されていないが、中国人の場合、本人の家庭の政治的背景、出身階級、学業成績、賞罰、前科、政治に対する上司の評価、政治的処分、当人に対する投書・密告とその処理、入隊・入団・入党に関する申請書類と許可・不許可、本人を取り巻く環境(特に海外関係)、海外出張や駐在記録などに関する資料が保存されているようである。このうち、家庭の政治的背景と出身階級は文化大革命の反省から、現在は削除されていると聞いているが、真偽の程はわからない。
 我々外国人の档案に、何が書き込まれ保存されているのか想像の域をでないが、ビザ申請時の書類一式(健康診断書も含む)に始まり、駐在許可取得のために企業が提出した経歴書、本人の政治的背景や中国での政治的行動(例えば中国の政治活動家との接触など)、本人に関連した中国での民事事件(本人が引き起こした刑事事件なら入国できない)で本人に関する投書・密告書類などと推測する。
 ここで、本人に関する投書・密告書類とは誰が公安局へ出すのかである。つまり、自分の身の回りにいる(公司にいる)共産党幹部クラスではないかと思う。付け加えるが、以前は公司の総経理になるのは共産党幹部クラスでないとダメであった。一般の党員ではなれない。
 外資系企業で働く中国人従業員の「档案」を、我々外国人は閲覧もできず、通常、その企業の共産党組織の責任者か工会(労働組合)が保管している。独資企業の場合、自社で保存も閲覧もできないので、その企業所在地の労働局や人事局に保管料を払っている。

33.辞めた中国人スタッフとのつきあい

私が在職中に辞めた優秀なスタッフが4~5人いた。彼らは私に内緒でその理由を言ってくれた。勿論、私は夜、一緒に白酒を飲みながら本音を聞き出すために別のスタッフに頼で計画したのである。退職原因は、中国人同士の軋轢と人間関係であった。彼らの口から出た言葉は「私が総経理となって公司の経営ができるなら一緒に仕事したいが、今の総経理Z氏では仕事が出来ない」とのことであった。
 更に、真実性がない日本人の悪口(実は私のことであった)や嘘を平気で言う人間とは一緒に仕事が出来ないとのことだった。裏では(中国人同士の中)Z氏がかなり、私の悪口を吹聴していたこともわかった。そんな私の悪口を聞いて彼らは、その言葉を信用せず、逆に私の肩を持ってくれたこともわかった。
「おまえは中国人のくせして、日本人に味方するのか」まで言われたようである。
とにかく、私と親しくする社員は、ことごとく、私を悪者にして、Z氏の方へ向かわせようと仕組んだのである。これでは公司がまともに機能しないはずである。今で言う、パワハラ・セクハラZ氏としても悪行が多すぎた人材である。今でも、このメンバーとは時々メール交換をしている間柄である。嬉しい限りである。 

34.はびこる密告に対抗

1)現地駐在日本人が、中国人と結託
 仕事に全力投球しながら、ドロドロした公司内での中国人との戦いは、日常茶飯事であった。密告、机上の書類チェック、追跡である。犯人はZ氏一人であることもわかっていた。机上チェックの対応策は簡単である。帰宅時、私の机の上に何も置かないか、置いても見られてもいい書類だけ意識的において、しかも置いた状態を覚えておくのである。勿論、机には必ず施錠をした(正直,日本にいるときは会社の机に施錠をしたことがなかった)。翌日朝、公司に来て机を見ると書類が動いている。これで判断できるのである。
 しかし、密告には参ったことがある。悪いことに駐在事務所の日本人M(非常勤董事)が中国人Zに加担して、一方的な話だけを聞いて、日本の本社営業部門の人間に日本人である私を訴えたのである。あることないこと尾ひれまでついてである。
 4月に一時帰国したとき、役員O氏からは事情を聞かれ怒られた。だが、私は言い返した。「あなたは、中国人を信用するのか日本人を信用するのか」、「日本人は、この会社で私一人だけだ、駐在事務所のMは、実態を把握していない」、「私が裏でどのような精神的屈辱を受けているか知っているのか」、「もっと裏の実態まで理解してほしい」と。
 ところが、この責任者は私に「あんたは頭が少しおかしいのでないかと」。思わず「ふざけるな。あんたは、私が大連でどれだけ裏で中国人Z氏から批判され、それに加担している日本人駐在員Mのことを分かっているのか。一方的な話で私を責めることは許せない。人権侵害である。現地へ来て自分で調査したらどうか」と詰め寄った。すると役員Oは、「駐在員事務所のMを公司に駐在させて管理させる」と発言したのである。
2)密告に対抗する作戦と実行
 大連へ帰った後も、私は怒りが収まらずZ、Mに対し“目には目を歯には歯を”で報復すべく信頼関係にある中国人スタッフを巻き込み、綿密な作戦と行動計画をたて反撃を実施したのである。この作戦内容は、ここで言えないが、ある行動に出た。案の定、今度はすぐO役員が大連へとんで来たのである。
 多分、前回の問題とは逆の問題が発生したと思ったのであろう。会議室でZと私三人だったが、私は一切喋らず、O役員とZとの会話が英語で延々続いた。一方的にZを責めたのである。私は多額の金を着服しているので辞任させようと計画したが、結果的に本人から謝罪もあり不本意ながら承諾した。しかしいまでもこのZ氏と日本人Mは許せない人材である。
 Mの公司駐在は実現しなかった。当然出来るはずがない。つまり駐在員事務所の人間であり、公司に在籍しては駐在員事務所の仕事ができなかったのである。
 私は心身ともどもズタズタにされたが、中国での“面子を重んじる”は日本人でもあることを認識させたのである。この事件以降、この中国人Z氏は私に逆らわなくなった。海外でも、日本人が日本人を売名することについて論議もあるが、私はこの日本人Mの人格を容認できない最低人間と今でも思っている。駐在員事務所の中国人スタッフから、そして現地駐在している日本人からも悪評が高かった人物であった。
3)行動をチェックする深夜の変な電話
 Z氏の追跡は見え見えの行動が多かった。夜中に、頻繁に在宅の確認電話をしてきた。勤務時間中に確認すればいい内容でも夜中に電話してくる。全く異常としか思えなかった。これらは追跡調査されていると思えばよい。そんな時はいつもとぼけた発言であしらったのである。そして翌日、本人と会い再度確認しクギを刺したのである。
 私も、逆に何回も夜中に無言電話作戦で仕返しをしたことがある。これも“目には目を、歯には歯を”である。要は、おとなしくしていたら駄目なのである。

35.突然実施された完全週休二日制(1995年)

1994年だったと思うが、国家指示で完全週休二日制導入の案内が、公式文書で発表された。
内容を見ると、生産工場は年間の生産稼動計画にもとづき日程計画表を出せとか、直接消費者向けの事業公司は、平日に休日振替する等導入に向けての通達文書であった。私の勤務する公司は、無条件に土、日の休日である。
 一番困ったのは、日系の生産工場公司であった。開発区内の公司間では情報が飛び交い、意見が錯綜し、一時混乱したようである。こんな茶番劇でも、国家統制のもと、中国全土で一斉に1995年から開始されたのである。
 しかし、本当に困ったのは中国人自身であった。毎週2日間の休みは実施されても、どう過ごしたらいいのかわからず、また遊びにいくとしても、銭がかかり右往左往していたことを中国人スタッフから聞いた。しかし時代の流れで、今は完全に生活に、仕事に定着している。

36.出勤途中で大型公共ジャバラ型連結バスとあわや衝突寸前

1996年3月初めび朝の出勤途中で、私が乗った公司のトヨタ乗用車と大型のジャバラ型バス(2両連結型)が衝突寸前になった。
 私が、後方座席に乗車し前方を見ていたとき、左折しようと停止していた乗用車の後ろから、大型バスがその車の右横を通り過ぎ、私の乗っている車の前方正面に向かって、我々の車の前に突進してきたのである。後方座席右側に座っていた私は一瞬「危ない、死ぬ」と思い、前席シートに身体全体を伏せた。頭を下に向け目を閉じていたのでその瞬間、私の頭は真っ暗だった。
 気が付いて外を見ると、この大型バスは、なんと、街路樹の間をうまく通り抜け、民家の門を突き進み、玄関の前で止まっていたのである。バスの中には大勢の客が乗っている。私の方の車は、丈夫かと思い降りて調べたら、前方右側が少し凹んだ程度であった。公司の運転手はボーとしている。
 私はバスに向かって走り、バス運転手に罵声を浴びせた。その時、後方にいた女車掌が私に食ってかかってきたのである。私は怒りが収まらず、大声でまた怒鳴り散らした。お陰で周りに群集が集まり、前後の車はストップし、渋滞になった。私の運転手は相変わらずボーとしている。
 バスは、個人公司のボロ車だが、幸い乗客にもケガはなく、双方にケガもなかった。原因は、我々の車が来ているのに、バスの前には、左折の車が停止しているにも関わらず、無謀にも反対車線へ飛び出てきたことであった。
後で、公司の運転手に聞いたが、とっさの判断でハンドルを左に切ったあとは覚えていないとのことであった。お陰で、一時間半遅刻したが、何はともあれ急死に一生を得たのである。

公共連結バスとあわや衝突寸前の図
大連市内を走るジャバラ連結バス1994年

37.技術者を連れて日本大阪へ、ところが翌日阪神大震災発生

1996年1月15日、私は大連の公司の技術者3名(男性2名、女性1名)を連れて大阪へ戻って来た。予め、契約していた協力会社の寮に3人を置いて、最終電車に乗り、久しぶりに我が家へ戻ったのである。ところが、翌日の早朝05:46分に例の阪神大震災が発生したのである。
 幸いにも、私の家は難を逃れたが、中国人3人共大丈夫かと朝から電話をかけまくったが、音信不通である。更に、交通も完全ストップし、寮に行くことさえ出来なかった。夕方、やっと連絡がとれ、一安心したが知人のことも気になった。
 その翌日、交通も動きはじめたので会社へ行ったが、これまたとんでもない事態になっているので、それどころではない。とりあえず、関係先のみ挨拶して早々に寮へ行き3人を確認してから帰宅した。上司からも「お前が帰国したから地震が起きた。
 四日目だったと思うが、私は技術者3人の仕事の段取りを決めて、すぐ大連に戻らざるを得なかったのである。関西は被災救援で他のことはかまっておれず、それどころではなく、かえって邪魔に思え、かつ、居ても何も出来なかったのが実際であった。
 日頃、日本にいない人間が大阪へ帰ってきたから地震が起きたとの嫌味も言われた。逆に、早く大連へ帰った方がいいと、助言してくれる先輩もいた。結局、私は決断し、後ろ髪ひかれる思いで1月20日、関西空港を後にして大連へ帰ったのである。卑怯な人間かと思われるかもしれないが、これしかなかったのである。

38.納得いかない帰国命令

私は、中国で最低10年は仕事しようと思い、土着もしてきたつもりであったが、1996年3月16日に、日本本社の知人から情報が入った。「日本へ帰国だよ。後任はTさんらしい」と、まだ正式には、私に連絡がないので冗談と思っていたが、3月26日O董事長から電話が入った。
「おまえ聞いているやろ、4月1日付けで帰国だ。後任はTだ」と。私はどこへ配属なるのか聞いたら「子会社で仕事だ」。私はあっけにとられた。日本で勝手に決め、事前に本人に打診もなく行われた人事に腹がたった。しかしこれがサラリーマンの宿命かと思い、私は日本本社へ電話をかけまくった。
 その夜は、頭に来て大酒をくらい深夜までカラオケで歌いまくった。翌日、後任のTにも聞いた。どうも私は、“ところてん”で言えば上から押され、その下にいた私が、出されたように感じたのである。
 後でわかったことだが、私が直接原因ではない人事だった。帰国が決まった?決められた?ものの、私の心は穏やかでなかった。これまで築いてきた中国人との関係、日系企業の方々との関係を後任はキチンと守ってくれるかどうか、それでも私の心理は、帰国したくない思いが毎日続いた。
 当然、問題の総経理Zの心はルンルン気分であったろう。今度、新人日本人が来れば何もわからないので、また天下が取れると思ったに違いないのである。後任者と何回となく連絡をとり本人は、4月25日にやっと大連に着任した。しかもかなりの荷物を同じ全日空便で持ち込んだ。税関知人へは、事前に手を回していたので持込荷物は全てフリーパスとなった。
 翌日から後任者と一緒に、これまでお世話になった日系企業の方々、中国の関連先に挨拶周りをした。約100箇所である。
 後任者は、挨拶廻りやら経済開発区の新公司の開業式に一緒に参加してもらい、そこでまた挨拶で、本人は完全に疲労しており、名刺でトランプ遊びをしていた。本人からは「もう挨拶廻りはいい」とまで言い出した。なんという人間だと思ったが、やはり行きたくないのに無理やり行かされた被害者意識がそう言わせたのかは知らない。しかし、私の心情が納得しなかった。

39.やっと自由に行けた旅順

帰国も決定した1996年5月の休日を利用して、スタッフが念願の旅順に連れて行ってくれた。幸い気持ちのよい五月初旬であった。あまり言いたくないが、公安車である。私の後任者を自宅待機させた。正直言って、今回は帰国を前にして誰にも干渉されたくなかったのである。大連駐在中の1993年に、一度連れていってもらったが、当時は許可の取っていない外国人は行けない場所であり、車を降りて写真も撮れない状況下で、仕方なく車の中から写真を撮ったものである。(いわゆる盗み撮りである)
 今回は遠慮することなく、旅順に入り市内を回った。なかでも有名な旅順港はロシア軍艦を撃沈させた?場所で有名であり、203高地から見たミニ半島が虎の尻尾のような形をしている。
その半島の先は、浅瀬であり高台から敵陣軍艦が入港してくる姿が全て見え、昔、ロシア軍艦が浅瀬に乗り上げた時に、日本軍が攻撃し撃沈させた場所である。日本軍とロシア軍の戦いは、皆さんが知っているので省略するが興味ある人はPHP文庫から「旅順」という単行本が出版されているので見て欲しい。
このときも、連れが、外国人である私に言った。「日本語は話さないように」。旅順博物館や土産品売り場を見ているとき、連れに小さな声で日本語を話していたが、傍にいる売店の人は終始、ニコニコして私達を見ていた。
また、203高地の慰霊塔、そして中国軍(八一軍という)が、当時使った戦車や戦闘機等が展示されていたので、私は5元を払って八一軍が使ったヘルメットをかぶり、戦車や戦闘機の上に乗り敬礼した。“我是中国八一軍人”。そんな訳で、今回の旅順訪問では大胆に写真を取り捲ったのである。

旅順 老虎尾1996.05
旅順駅1996.05

40.帰国手続き 税関でまたもトラブル発生

私の帰国で気にかかっていたことが出てきた。1992年12月に赴任したときの条件に私個人名義で日本車(トヨタ製コロナ)を持ち込んでいる。当時は、個人名義で車を輸入すると、早く税関から引き取ることができる話を問題の駐在員Mから聞き、その指導を受けて私名義で輸入した。この車は公司で仕事用に使っていたのである。
 今回の帰国で、中国人スタッフWさんに税関の帰国手続きをさせたら、税関は「車は日本へ持って帰れ」と言う。なかなか話がまとまらないので、業を煮やしていた。そこで、私がスタッフWさんと一緒に、税関へ3回も足を運び、最後は税関局長に談判した結果、車は大連においていくことで帰国を認めてくれたのである。やはり、規則があってもWさんの朋友のルートと下工作したお陰であり、説得力と心が如何に重要であるか再認識したのである。
 その車は、後任のT氏が使い、T氏が大連を引き上げた後は、総経理Z氏が通勤に使っていた。28万km走行しているが“没問題(日本語で問題なし)”とのことだった。部品はよく交換していたらしいが、手入れがいいので長持ちしていたのだろう。しかし、2003年に大連訪問したときは、既に、この車は廃車にしたそうである。

41.常駐を終えて帰国の日

1996年5月25日は、朝から中国人スタッフが私の部屋に大勢来てくれ、部屋の中は賑やかであった。私は昨夜、眠れなく頭がボーとしていたが楽しく会話に参加していた。
 その後、私が日本へ持って帰る荷物の検査に、中国人税関2人が来た。勿論、先に搬送を依頼した山九運輸公司や税関ルートには手を打ってあったのでダンボール箱と税関書類は、見てチェックしたふりで、税関が箱に封印をして短時間で帰っていった。いよいよ中国人スタッフとも別れる時間が迫ってきた。時間よ止まれ、タイムスリップせよ、正直、帰国したくない心境であった。
 こうして、私はケンカ・密告をしたZ氏とスタッフの良き理解者Wさん一行の見送りを受けた。後から社員のY君が空港へ駆けつけてくれ、二階から私に香港返還記念メダルを投下してくれた。この記念メダルは今でも大切に保管している。3人に見送られ、5月25日(土)午後、とうとう大連を後にして帰国したのである。 「我以后再一次回来大連・中国再見」と、今度は中国語で心中叫びながら大連を後にした。
 全日空便が大連空港を離陸した後、私は、窓から下界の風景をみながら「再見」とは、さよならではなく再度また逢うことであると一人つぶやいた。次回、いつ大連に来れるか。いや残している問題が多くあるので、必ず実現すると誓ったのである。
 帰りの飛行時間が、これまで以上に短かったように思え、いつのまにか関西空港に到着した。空港では、妻と知人のI氏が出迎えに来てくれていた。このI氏の車で自宅まで送ってもらったことが大変嬉しかった。旧知の友人であった大阪のI氏は2007年5月18日、享年58歳で他界してしまった。あまりにも早すぎる他界であった。合掌。

42.第二回目中国人技術者の来日

私が常駐していた大連の公司から、二回目の技術者計4名が、日本で二年間の技術研修を受けに来た。私が呼んだのである。仕事を大連に委託することが目的であった。勿論、知った中国人ばかりで当時一緒に食事や白酒を飲んだ仲間である。私はこれ幸いに、せっかく覚えた中国を忘れてはならないと中国人メンバーと話すときは中国語で話した。
 仕事上での管理(外国人管理)は私の仕事であり、大連公司の後任T氏との折衝も私が行った。しかし、1名は日本に馴染まず大連へ望郷感が強く、結果的に半年で帰国した。他の3名は緑地公園近くのマンションで二年間,私の管理のもとで生活しながら仕事を習得し、彼らの住まいで一緒に食事、車で観光地旅行、そして私の家にも招待し、お酒を交わしたのである。
 やがて、二年間の研修期間が終わり、研修生は大連へ帰国した。関西空港まで見送りに行き、彼らに伝えた。「きっとまた大連へ行く」と。そのときの彼らの笑顔が忘れられない。
 話は戻るが、第一回目に日本へ技術研修にきたMさんは、いつのまにか日本へ再度来て、社内のN氏と結婚し、今は大変幸せな家庭を築いている。奈良で行われた結婚式のときは、私が正式な仲人ではないが、それに近い状況で両家の両親にも挨拶し、祝辞も述べた。大連からは彼女の両親が来て話したが、私が大連で仕事をしていたことや私自身のこともよく知っていた。彼女Mさんとは旦那の了解のもと、いろいろ仕事の悩みや中国関連ビジネスで付き合いが続いている。もっとも最近は、子供もうまれ,一児の母親になり、疎遠になっていることが寂しい。

43.休暇を利用し故郷中国の旅へ

私は、日本へ帰国しても夏季休暇、正月休みを利用して故郷中国へ飛んだ。まだ行っていない場所を探索訪問するためである。妻はあきれ返っている。何回か行き来しているうちに、日本の航空会社に乗ることが馬鹿らしくなった。要は、料金が高すぎるのである。しかも中国人と日本人との料金差の不公平を何とかして欲しい。さて日本帰国後、観光を兼ね写真を撮りに行った中国の各地は以下の通りである。
 雲南省:1997年8月:昆明、石林、西双版納
 青海省:2000年5月:西寧、日塔寺、青海湖
 上 海:2001年1月:周庄荘等
 雲南省:2001年8月:昆明、大理、迪慶、中甸(昆明からバスで4時間)、麗江古城、葛丹贊林寺(ラマ教寺院)、玉龍雪山登山、白水湖、宗経寺三塔、洱海遊覧、納西族東巴文化聖地(東巴神園)等

2001年8月麗江空港ビル

44.老朋友来日アテンド

2002年8月に、大連市政府を中心とするIT関連の一行が東京へやってきた。東京事務所の開所式を兼ねてである。このとき、私は丁度夏休みを利用して、大連の旧友Jさんを全日程アテンドして東京、名古屋、京都、大阪、神戸を引率した。先に関西空港着し、大阪から東京へ向かう計画で行動したのである。“熱烈歓迎光臨 来日本”
 神戸のポートアイランドや大阪の海遊館と大ゴンドラに、京都では嵐山渡月橋近くにある周恩来の石碑、東京ではディズニーシー見学や秋葉原ショッピング(東京では静岡からO君が駆けつけてくれた)、また東京M物産主催の会議では、私が大連の引率者として参加、名古屋では中国人社長が経営する会社へ挨拶するなどした。
 観光ガイドではないが、なにぶん旧友は初めて日本へ来たのであり日本語は少しわかるが不安である。また、私が大連にいたときはいろんな面で助けてくれた恩人でもあったから私としては特別待遇で対応したのである。Jさんは、10日間の初日本滞在を終え、9月4日関西空港から大連へ帰ったが、その際も私は言った。「きっとまた大連へ行く、以后互相合作だ」と。

45.脱サラ、やっぱり中国ビジネス

私は、2003年3月末でサラリーマンをやめ、フリーマンとなった。退職したものの失業保険をもらいながら思案の連日であったが、会社設立に向け、いろんな方に会い情報を集めた。ある人は「その歳で、何で会社を辞めたのか」、「今は、その歳では再就職は困難」、「我慢して前の会社でおればいいのに」、「よくぞ決心したなあ」等様々な意見を頂いたが、自分の決定と実行は、後ろに引下れないと判断し続けた。
試しに履歴書、経歴書を出した会社、ヘッドハンティング会社に登録したりしたが、中国関連では生産工場の技術者ばかりであったし若年層の募集が圧倒的であった。一時重苦しい心境の時期もあった。
私は、会社設立も含め、ビジネス情報の入手や老朋友と話すために大連へ向かった。

46.度重なる大連訪問、高層ビルの乱立と旧市街地の取り壊し
  進出日系企業の事業形態が変化

私は、退職後の2003年7月、10月の二回にわたり久しぶりに大連を訪問した。勿論、今後の会社事業に関する調査と意見交換のためである。
 7月の訪問で大連市内は、やはり“北方香港”化を目指した薄前大連市長(私と年齢が同じだが、彼の方は背が高く美男子である)の政策が功を奏している。高層ビルが乱立しており、市内の幹線道路(中山路)は、以前の道路幅の倍である。また、駅前の商城ビルや地下商店街が整備され、街を走るタクシーも綺麗になっている。1990年代のイメージがなくなっていた。
 10月の訪問では一週間滞在の予定で、本格的にビジネスの合作を中心に公司の経営者クラスと語った。この公司は、私が帰国後、正直悲惨な状況が続いており経営も悪化していた。、何とか以前の活気ある公司、そしてユニークな事業化を目指し再生することが出来ないかを検討した。 
 その後、2004年から毎年2~3回程度の大連訪問であった。この間に感じたことは、これまでの労働集約型企業の進出がサービス産業や製造関係以外の業種が進出し、いろんな業種の日本人が大連に来ていることであった。もはや中国の低賃金を求めて進出するのではなく、市場の大きさと民度の向上や富裕層の増加で対象ビジネスが変化している、また大連市内には高層ビルが乱立し、昔からあった市街地の住宅がどんどん壊されており、昔を懐かしむ風景が消え始めていた。
 私は大連市内にある各広場といわれる取材と写真撮影も行い、少しでも歴史に残そうと動いた。市内の広場と言われるものは10箇所を主としたが、中には広場と称しているが単なる交差点しかない広場もあった。
 また、新規ビジネスとして既に高齢化社会を迎えている中国だが、大連市内での介護用品店舗の調査も行った。聞くと2~3店舗程度とのことだったが、その1店舗を見学した。店舗責任者から聞いたところ、この店舗で取り扱っている商品は全て中国広州の製造メーカ品だとのこと。最近は客から日本製や米国製がないか問い合わせが増えているとのことだった。

電視台下からの風景2003.08
取り壊された旧市街地の住宅2009.04.19
大連市内の高級公萬2009.04.23

47.会社設立後にヘッドハンティング

2004年7月、大連の地元大手公司の副総経理O氏からメールが来た。8月に日本へ行くので合いたいと。この0氏は、私が大連で常駐した公司(集団公司の一つ)の親会社的存在の大手某有限公司の好朋友である。突然のメールで嬉しく思ったが、反面、何だろうと疑念をもった。つまり、この0氏は大連で最大のソフトウェア公司の副総経理である。私みたいな弱小会社を相手にするはずがないと思った。しかし快く受けて返事を出した。
 面会する予定日である8月になり、新大阪駅近くの宿泊先ホテルロビーでO氏と会った。話の内容は、私をヘッドハンティングすることだった。「東京の日本法人会社の代表になってくれないか」であった。
会社設立して間もない時期に困った話であった。情況を聞き、私は「この話は判断するには時間が必要なので少し待ってほしい」と伝え、約2時間、近況も踏まえ話し合し、別れたのである。
 この話は8月末に大連訪問したとき、O副総経理とL総経理(この人も旧知の人である)と面談し再度、確認しあった。私は申し訳ないが辞退する結論を決めていた。約1時間話し合いをしたのち、二人は私の意見を快く受諾してくれた。
 つまり、私にとって、何のために会社を設立したのか?今後の目的と現実をリターンしては意味がないことになるからであった。もし、会社設立前にこの話があれば喜んで受諾していたかもしれない。

48.新しい日中ビジネンスを求めて中国各地へ市場調査

私は、2005年から中国での新事業について調査分析を開始し2007年にやっと方向性が決まり、事業開始に向け2006年11月から市場調査に動き出した。調査は先ず、武漢・桂林とした。何故か?
中国東海岸の都市は日本企業がかなり進出しており、これからは中国政府の政策「西部開発」がポントであった。日本からは直行便もなく上海や北京から乗り継いでいくことになる。大連の老朋友や大阪の企業経営者と一緒に武漢科技大学、そしてこの大学の外語学院、武漢市にある東湖経済開発区にある武漢軟件園、武漢市内のソフトウェア企業、桂林科技電子大學や関係先、広東省深圳市を訪問した。
 桂林はやはり観光地なので断念し、武漢に的を絞り、ソフトウェア企業と継続的にビジネス交流を行い武漢市で合弁の営業許可を取った(筆者が董事長)。しかし資本金を振り込む前にこのソフトウェア会社は結果的にエスケープしたのである。
 深圳では空港到着事に友人が人民解放軍車で迎えてくれた。深圳市内までの道路を車中からみると1994年に深圳を初訪問したときのことが懐かしく感じられたが、風景は農村から大都会に変身していた。結果的に、私はビジネス模索として深圳でのビジネスは既に遅いと判断した。つまり物価が他都市よりも高騰し、賃金もかなり上昇していたためである。結果的に深圳では観光のみにしてしまった。

49.シニア人材の紹介で第一号が決まる

2008年5月訪問時に2名の人材を古巣の大手会社に紹介し、面接した結果、1名のシニアの採用が決定した。契約期間は最低3年間である。このため、住まいや大連の紹介や観光、そして携帯電話の購入までお付き合いした。
今回の訪問中に、2008年5月8日午前9時17分、中国の登山家が北京オリンク用聖火を持ってエベレスト(中国語でチョモランマ)6300m登頂に成功した。CCTVではさかんに放映していたのである。
当日のチョモランマ頂上は、風速18m、氷点下26度。気圧が低く、酸素が少ない環境下で成功した。登頂開始の指示は8日午前2時、登頂開始は3時であり登頂完了時刻は9時17分、聖火は山頂手前で特殊トーチに点火され、5人のリレーにより登頂し、山頂でトーチをかざしたのはチベット女性隊員ツェリン・ワンモさん(23)だったとのことである。実に登頂開始してから約6時間強の登頂であったことになる。
 私は幸運というのか、大連に来ていなければ、このTV実況放映はこの目で見ることができなかったのである。東京オリンピックにとき、聖火が富士山に登頂したのだろうか? こんな話は聞いたことがない。

聖火がチョモランマ登頂2008.05.08
:チョモランマ登頂2008.05.08
チョモランマになびく紅旗とオリンピック旗2008.05.08

50.浙江省杭州市、塩城市へ

2009年9月20日から4日間の日程で杭州市、塩城市を訪問した。私の立場は某日中団体の理事・事務局長になっているため10名と同行した。今回はJAL便の関空→杭州直行便をつかったが、10月25日で運行停止となる航路だった。杭州市に到着後、ホテルでチェックインし先ずは市内観光に出かけ雷峯塔を見学。夜は杭州市の友好協会や関係機関、アリババ役員と夕食、白酒の大宴会。ここで旧知の友人莫さん(元大阪中国総領事館勤務)と久しぶりに再会し、感激した。会って21日は蕭山経済技術開発区管理委員会、蕭山太陽機械有限公司(大阪守口市)、阿里巴巴(中国)有限公司、金都房産集団有限公司を訪問し情報交換をおこなった。夜は江蘇省如皋市招商局との交流会でまたも白酒の攻撃攻めだった。
22日は西湖、中国茶叶博物館、杭州花家山荘(別名:静岡県会館)、霊隠寺を観光し、夜は塩城市人民政府との交流会でまたも白酒攻めだった。
23日は杭州市から高速で5時間かかる塩城市(丹頂鶴で有名)へ向かった。塩城市政府の車(ホンダ)は時速140km~160kmの速度で(中国の高速道は110km)走るため心臓が破裂しそうだった。到着後、昼食を済ませてから塩城市博物館、経済技術開発区、環保産業園管理委員会訪問し、夜は塩城市人民政府対外協会との夕食会、ここでも驚きの白酒攻撃だった。驚きとは2人の女性が両サイドから皿に入った白酒を無理に飲ます方式だったので、ゆっくり飲めず一気に飲まねばならなかった。
24日早朝に塩城市のホテルを出発し、一路上海浦東空港へまたも5時間かけて走った上海市内の大渋滞のせいで大連行き搭乗手続きが終了していたが、無理に頼み込みOKとなった。しかし荷物検査で中に入れていた水、白酒、シャンプーがひっかかり揉めた。フライト時間に間に合わないので全部検査員に渡し、急いで搭乗口へ走る走る。もうヘトヘトだった。機内に入り”ぜいぜいはあはあ”。しかし飛行機は動かない。待つこと50分。やっと離陸体制に入り次の目的地である大連へ向かった。いやはやお疲れさん。

雨の中を西湖参観2009.09.22
蕭山経済技術開発区2009.09.21
アリババ本社にて2009.09.21
杭州市→塩城市へ市政府車に同乗2009.09.23