第二部 紅い大陸

中国(中華人民共和国)の建国は1949年10月1日とされ、中国共産党一党独裁が始まり、10月1日は国慶節とされている。建国以前は一国ではなく24の王朝が国を争奪し合い、殺戮の繰り返しの長い歴史を持つ小国の集まりであった。その意味では「中国4千年の歴史」という表現は当たらない。むしろ「大陸4千年の歴史」と表現した方がよいと思う。尚、中国共産党は1921年7月23日に上海で結党されている。
 1949年10月1日の中華人民共和国の建国で毛沢東が最高指導者となり、その後鄧小平(1978年~1989年)、江澤民(1989年~2002年)、胡錦濤(2002年~2012年)、そして現在の習近平(2012年~現在)が政権を握っている。この中に華国峰の名前が出ていない。理由は毛沢東が1976年に退任した後、僅か2年間のみ最高指導者となったことからカウントされていない。
 毛沢東を崇拝する現在の中国は、1766年から約10年間“文化大革命”で約1,000万人の死者、そして大飢饉でも数千万人の餓死者を出している。そんな毛沢東をなぜ崇拝するのか理解に苦しむ。また歴史を捏造し、共産党が抗日戦争に勝利したということも、人民に対するプロパガンダとして浸透させ、一党独裁を堅持する手段にしているとしか考えられない。
今年2015年9月3日の建国70周年軍事パレードでは、「抗日戦争70周年勝利」と称してロシアのプーチン大統領、韓国の朴大統領などが出席し、中国の国防力をまざまざと見せ付ける内容であったことは記憶に新しい。

1.中華思想とは何か?

◇中国、漢民族の自国、自民族を中心に置く世界観
「漢民族は自国を宇宙(世界)の中心にあって、花が咲きほこっている国という意味で「中華」といい、その周辺の異民族に優越すると考え、漢民族の思考を中華思想、あるいは中華意識、華夷思想ともいう。渭水流域の中原に成立した周王朝に始まり、春秋・戦国時代を経て形成され、漢代には確固たる漢民族の世界観となり、周辺民族をその方面別に東夷、南蛮、西戎、北狄と呼び、漢民族はこれらの民族を異民族ととらえた。
また、これらの言葉には当初は蔑視の意味はなかったが、周代になると犬戎といわれる北方民族の侵入が始まり、戦国時代から秦時代・漢代になると強大な匈奴帝国の圧迫を受けるようになり、その恐怖心から蔑視の意味が含まれるようになった」とある。典型的な中華思想のキーワードは5つある。
1)世界は自分を中心に回っていると考える
2)自分の家族・部族以外の他人は基本的に信用しない
3)誇り高く、面子が潰れることを何よりも恐れる
4)外国からの経済援助は「感謝すべきもの」ではなく、「させてやるもの」だと考える
5)都合が悪くなると、自分はさておき、他人の「陰謀」に責任を転嫁する

◇聖徳太子は、「大陸とは同等である」国書を出した
 前述の説明した中華思想を判断すると、歴史を紐解くと当時の王朝である、唐や随王朝がさかんに日本に対し朝貢を求めた理由がわかる。しかし、飛鳥時代の聖徳太子が「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す」と国書を随王朝に送りつけ、対等な独立国であることを宣言している。この意味は、大陸の自分たちが住む場所だけを天下(世界)とし、それ以外の国を“化外の地”として見下していた大陸にとっては屈辱であり、随の皇帝を大いに怒らせた。しかし、その後から、建随使として推古朝の倭国(俀國)が技術や制度を学ぶために隋に派遣した朝貢使を600年(推古8年)~618年(推古26年)の18年間に5回以上派遣されている。また唐代には、遣唐使として倭国が唐に派遣した朝貢使を送っている。その後の唐王朝内部での内乱などにより寛平6年(894年)に菅原道真の建議により停止された。
 朝貢ということは使いたくないが、中華思想の陰が、日本国内にも浸透している事実を知っているだろうか。日中友好という言葉の裏にあることを。

◇中国人の中では「中華思想」という言葉はない?
中華思想とは日本人の造語であるという説もある。知人の中国人に聞いてみたら、「中華思想? それはいったい何?」と逆に問われたことがある。日本人が当たり前のように使う「中華思想」も、中国ではあまり一般的な言葉ではないのかと疑問に感じてくる。そこで、中国人がこの中華思想を認めなくても「華夷思想」(19世紀のアヘン戦争前後から変容しはじめた)という言葉が中国では一般的ではないかと思える。つまり、自己中心的世界観は厳として存在するからである。
では華夷思想とはなんだろうか。中国が周辺の異民族を冊封制度(中国の皇帝が異民族の王、侯を家臣として封じ、異民族は朝貢して礼をとる)で従えて君臨する秩序といったほどの意味であり、冊封体制と同義というべきだろう。「華」は中華の華、「夷」は夷狄戎蛮、「東夷「北狄」「西戎」「南蛮」、つまり周辺の異民族を侮蔑して総称したものである。ところが、清仏戦争に敗れベトナムが離脱、日清戦争に敗れ朝鮮が離脱、辛亥革命でモンゴル、チベットも離脱して、清朝の崩壊と同時に名実共に華夷秩序は終焉の時を迎えた。

◇中国4000年の“抗争と断絶”の歴史
中国4000年の歴史は、実は繰り返される断絶の歴史、もっと言えば血で血を洗う抗争の歴史といってもよいくらいであろう。それを象徴する言葉が「易姓革命」である。易姓革命とは、天下を治める者は、その時代に最も徳がある人物がふさわしい。天が徳を失った王朝に見切りをつけた時、革命が起きるという中国の伝統的な政治思想である。天や徳といった言葉が使われているが、実のところは新王朝が史書編纂などで歴代王朝の正統な後継であることを強調する一方で、新王朝の正当性を強調するために前王朝と末代皇帝の不徳と悪逆を強調する。それを正当化する理論として機能していたのが易姓革命の思想である。
 そのため中国の歴史は、決して誇張ではなく血で血を洗う抗争に次ぐ抗争であり、4000年の歴史と言っても我々日本人がイメージしているような悠久の歴史では全くない。
江戸時代の儒学者であり、軍学者であった山鹿素行はその著『中朝事実』においてその点を指摘し、「中国では易姓革命によって家臣が君主を弑することがしょっちゅう起こっている。中国は中華の名に値しない。建国以来万世一系の日本こそ中朝(中華)である」と主張した。

◇清朝は漢族ではなく満州族の王朝
中華人民共和国の前は、中華民国。その前は清。この清朝はいわゆる「中国人」の主流派である漢族の王朝ではない。北方の満州族が打ち立てた王朝である。前述した素行はこの点についてもきちんと指摘していた。この満州族が中国を支配していた清の時代に持ちこんだものの中には、今私たちが中国の伝統的なものと誤解しているものも少なくない。例えばチャイナドレス。チャイナドレスは丈の長い詰め襟の衣服だが、あれは元々北方に住む満州族の防風防寒のための衣服だった。
 実はこの満州族の王朝である清朝により、「中国」は拡大してほぼ今の「中国」とイコールになった。それまではもっと狭い地域を指していた。世界遺産の万里の長城は、外敵の侵入を防ぐために造られたものなのだから、長城の向こう側は「中国」ではなかった。その「中国」ではない地域、満州において1616年に建国した後金国が清の前身である。後金国の首都は遼陽から後に瀋陽(旧称奉天)に移されたが、つまり遼陽も瀋陽も当時は「中国」ではなかった、「中国」の外にあったのである。後金は1636年に国号を大清に改め、1644年に万里の長城を越えて北京に都を移す。こうして満州族の征服によって、満州から旧「中国」までを含む現「中国」が誕生したのである。

◇秦に見られる中国史の伝統・・・思想弾圧・大量殺戮・粛清
征服王朝から、もう一度初めて中国を統一した秦に戻ると、ここに中国史を貫く特徴が顕著に表れている。その特徴とは、思想弾圧、そして大量殺戮と粛清である。秦の始皇帝は歴史に名高い「焚書・坑儒」を行なった。
 焚書・坑儒とは、「書を燃やし、儒者を坑する(儒者を生き埋めにする)」の意味で、秦の大量殺戮と内部粛清である。『史記』の『白起列伝』には、中国統一に至る過程でのすさまじい殺戮が記述されている。例えば、紀元前293年、秦軍は韓と魏の連合軍を破るが、この時24万人を斬首している。その後も数万人レベルの斬首はざらで、最もすさまじかったのは紀元前260年の長平の戦いである。この時、秦軍は山西省高平県の長平で45万の大軍を擁した趙(ちょう)軍を降伏させるが、その後、45万の趙軍のうち戦闘中で命を落としたのは5万人。残りの40万人は捕虜となったが、秦の白起将軍によりこの40万人の捕虜ほぼ全員が生き埋めにされて処刑(坑殺)された。
 次は粛清である。紀元前210年に始皇帝は巡幸中に死亡すると、粛清の嵐が始まる。始皇帝の身辺の世話をしていた宦官・趙高と宰相・李斯は、まず始皇帝から後継指名を受けていた長男の扶蘇を自殺に追い込む。そして、次男の胡亥を二世皇帝に据え、権力をほしいままにした。傀儡政権を樹立した後は、趙高と李斯以外のグループの重臣を次々に殺戮。次いで胡亥の兄弟である12名の皇子を処刑し、10名の皇女を磔にした。
 ところが、次はさらなる内紛と粛清である。今度やられる方に回ったのは李斯であった。趙高は権力独占のために邪魔になった李斯を追い落とすため、謀反の罪をかけ、皇帝の名において逮捕させる。そして一族皆殺しである。これを「族誅」と言うが、族誅は中国史の伝統である。凄惨な粛清はさらに続く。趙高は、今度は二世皇帝・胡亥を自殺に追い込み、始皇帝の孫である子嬰を3世皇帝に立てるが(紀元前207年)、既に自らの力も国の力も衰え切っており、今度は逆に趙高一族が子嬰によって誅殺されることになる。なお、秦は子嬰が即位した翌年、紀元前206年には滅びてしまうが、滅ぼしたのが有名な項羽と劉邦である。この時、項羽がやったこともすさまじい。項羽は秦の首都・咸陽に向かう途中で造反の気配を見せた秦兵20万人を穴埋めにして殺している。また、子嬰が降伏して秦が滅亡した後、項羽は子嬰一族や官吏4千人を皆殺しにし、咸陽の美女財宝を略奪して、さらに始皇帝の墓を暴いて宝物を持ち出している。そして殺戮と略奪の限りを尽くした後、都に火をかけ、咸陽を廃墟とした。

◇毛沢東が行なった大量殺戮と粛清に次ぐ粛清
現代の中華人民共和国ももちろんその性格を色濃く有している。毛沢東が行なった数々の戦慄するようなおぞましい行為である。毛沢東は、1928年から、湖南省・江西省・福建省・浙江省の各地に革命根拠地を拡大していくが、その時の行動方針が「一村一焼一殺、外加全没収」であった。意味は「一つの村では、一人の土豪を殺し、一軒の家を焼き払い、加えて財産を全部没収する」である。
 1928年から1933年までの5年間で、「一村一焼一殺」で殺された地主の総数は、10万人に及んだという。中国共産党が政権を取ると、「一村一焼一殺」は中国全土に徹底して行なわれることとなった。全土で吊るし上げにあった地主は六百数十万人。うち二百万人程度が銃殺された。共産革命はどこの国においても大量殺戮と略奪を伴う惨たらしいものであるが、毛沢東の行動を知っていくと中国史の伝統の焼き直しにも見える。
 次は粛清だが、現代中国の粛清と言うと、先に述べた文化大革命が思い起こされるが、実際には中国共産党が勢力を拡大して行く途上においても、数々のすさまじい粛清が行なわれている。その主なものは以下のことである。
1)1930年~1931年にかけての「AB団粛清事件」・・7万人以上を処刑
2)1951年、1955年の「反革命分子鎮圧運動」・・・銃殺された人数71万人以上、処刑8万人、129万人逮捕
3)文革にもつながった「大躍進政策」・・・餓死者5千万人?
4)1959年劉少奇が国家主席に、復讐・粛清が文化大革命

2.孔子学院設立の意味するものは?

1)大学と提携、採算度外視
孔子学院は中国教育省が2003年から推進している国家プロジェクトである。2004年にソウルで1校目が設置された後、毎月数校ペースで米国、欧州、アフリカ、南太平洋などに学校を設置しその数を着実に増やしていった。2015年7月報道では、これまでに世界126の国・地域に490カ所の孔子学院を設立していると発表している。
孔子学院は各国の大学と提携し、その大学の中で授業を行う。教師は原則として、現地採用ではなく中国国内から派遣され、教科書も全て中国当局の作成したものを使用しているという。
 孔子学院に詳しい中国共産党関係者によると、同学院がつくられた背景には、1989年の民主化を弾圧した天安門事件があるという。事件後、海外に亡命した多くの知識人は各地で中国語教室を開いた。言葉を教えると同時に中国共産党の一党独裁体制をも批判した。「このままでは世界中で反中分子が増える」と焦った中国当局が、その対策として孔子学院の設置に取りかかったとされる。
2)実態は中国宣伝機関
 このように中国語と中国文化を教える学校という形を取っている孔子学院だが、かつて中国教育省の高官は講演で、「わが国の外交と対外宣伝工作の重要な一部だ」と強調したことがあった。世界各国で既に400カ所以上に設置されているが、中国当局の価値観を現地の学生に押しつけるなど、これまでも各国で批判されてきた。2012年には米国で、同学院の講師の査証(ビザ)更新が一時認められなかったこともあった。
 日本にも孔子学院がいくつかある。中でも、関西は「初モノ」が多い。2005(平成17)年に立命館大学と北京大学が提携して開設された立命館孔子学院は、国内初の孔子学院である。また2009年には日本の外国語大学としては初めて、関西外国語大学にも開設された。中国の教育関係者は「大学の中に設置されていると、学生たちは、孔子学院の授業はその国の公的教育の一環と理解しがちだ。また、その方が中国の価値観と文化を浸透させやすい」と話している。

立命館孔子学院

3.続々と設立された「日中友好」の受け皿組織

各種の研究によると、中国共産党による戦後の対日工作の歴史は、以下にある大きく三期にわけることができる。
     第一期:1949年(あるいは1952年)~1972年
     第二期:1972年~1992年
     第三期:1992年~現在
この中で最も重要な時期は第一期、つまり、初めて日本国内に「日中友好」の受け皿組織が結成された1949年、あるいは、サインフランシスコ条約が発効し、日本国の独立が回復した1952年4月28日から1972年9月の「日中国交正常化」(日中共同声明)に至るまでである。
 この初期段階では、日本政府の公安機関などから「中共帰国者情報機関」と呼ばれた日本人グループが、中国側の上部組織などとともに武器や資金を日本に密輸し、当時、地下活動中であった日本共産党その他の地下グループに提供するという非合法的破壊工作も行われていた。しかし特筆すべきは、まだ人民解放軍が国民党軍を台湾に追い出しきっていない(毛沢東が中華人民共和国建国を宣言していないとき)1949年5月の時点で、早くも「日中友好」工作の受け皿となる組織が日本国内に結成されていたことである。しかも当時は、まだアメリカ軍の占領下にあったのである。
 当時の日本側の受け皿組織は、「中日貿易促進会」「中日貿易促進議員連盟」の二団体であった。(“中日”という漢字は、当時日本側の組織であっても“日”を先にしてはならないとされたが、後に“日中”と改称)
後者の「中日貿易促進議員連盟」は、今日の「日中友好七団体」(日中友好協会、日中文化交流協会、日中友好議員連盟、日中経済協会、日中協会、日中友好会館、日本国際貿易促進協会)の核心をなす「日中友好議員連盟」の前進とも言える。
 翌1950年10月に、やはり「七団体」の中核組織である「日中友好協会」が設立された。まさにこの時期に、示し合わせたように続々と「日中友好」組織が設立された。ところが、中国側に中日友好協会ができたのは、1963年だった。なぜか。中国共産党は、あくまでも日本国内から「日中国交回復」運動が自然発生的に生じたように演出しかたったからである。日中国交「回復」は、“悔い改めた日本人”が「自ら懺悔の心」を持って望んだことであるという、「日中友好という神話」を作り出すためであったと考えられる。そのために戦前から日本国内で秘密裏に培ってきた親中共派の地下ネットワーク人脈を戦後、地上に送り出し、“表”の工作として開始されたのが、日中国交「回復」、「日中友好」運動だった。
 日本が独立を回復した1952年になると、堰を切ったように、日中の人的交流が開始された。
公式に確認されている人的交流の第一号は、アメリカ軍の占領が正式に終了し、日本が主権を回復した1952年4月、北京を訪れた3人の日本人政治家だった。3人とは、元参議院議員で帰国後に社会党衆議院議員となった帆足計、参議院听(緑風会)高良とみ、改進党衆議院議員宮腰喜助である。帆足らはパリ、モスクワ経由でフランスのパスポートを使い北京に入り、なんの公的権限もないのに「日中民間貿易協定」を北京政府と勝手に結んでいる。
 当時は、朝鮮戦争の最中であり、アメリカ軍と中国軍は朝鮮半島で戦闘を続けていたので、吉田茂政権下の日本政府は日米関係や冷戦戦略を考慮し、簡単には中国への渡航を認めていなかったので、日本人が訪中するには、国の法律を破って、欧州、モスクワ経由で北京に入る必要があった。また中国は、人民義勇軍を朝鮮半島に派遣しアメリカ軍と戦闘中であり、中国共産党政権が日本から呼び寄せるのは、経済人や文化人ではなく政治家であり、これほどまでにリスクを冒して日中の人的交流に踏み込んだところに、対日工作にかける中国共産党の強固な意志が垣間見える。
つまり、日中国交回復運動を反米闘争へ転化し、日米分断により日本の属国化を図り、自らがアジアの盟主、そしていずれは世界の超大国を目指すという、戦争中に毛沢東が描いた誇大妄想戦略をなんとしても実現するのだという、共産主義と中華思想が一体となった強固な意志が、そこに見出される。

4.対日工作(友好工作)を務めた超一級工作員

注目すべき北京で帆足らの相手役となった中国側の人物は、張香山、冀朝鼎、孫平化、寥承志である。
①張香山(1914~2009)
 中華人民共和国建国以来、対日工作を専門に担った人物で、日中国交正常化攻守には、外交部顧問として関与、のちに中国国際交流協会副会長他、日中友好21世紀委員会の中国側座長なども歴任した。この張香山は1930年代に日本に留学しており、いわゆる知日派の代表格とされているが、日本留学以前に中国共産党に秘密入党していたことが今日明らかになっている。つまり元々、秘密工作員として日本に派遣されていたのである。
②冀朝鼎(1904~1963)
 知る人ぞ知るコミンテルンのたいへんな大物工作員で、1930年代にはアメリカで「日本の中国侵略に反対する」団体を次から次へと組織したり、アメリカの反日世論を高める工作に従事していた。なかでも大仕事となったのが、1941年11月、アメリカが「ハル・ノート」を日本に提示するか、それとも対日妥協案を採用するか決断の時期を迎えていた頃、その状況を重慶の国民党政府に派遣されていたオーエン・ラティモア(アメリカの有名なアジア研究者、幾度もソ連のスパイと名指しされていた人物)に知らせ、蒋介石を動かし、アメリカの対日妥協案に対し強硬に反対し、アメリカを「ハル・ノート」へと向かわせたことである。
 当時ドイツ軍にモスクワ近郊まで攻め込まれていたソ連は、満州の日本軍(関東軍)の北進(対ソ開戦)を強く警戒していた。そのためスターリンは是が非でも、コノタイミングで日米を開戦させる必要があった。そのギリギリの局面で、ソ連と中国共産党の意を受けて、日米交渉の妥結を身体を張って阻止した。中国共産党にとっての大功労者であった。それゆえ、中華人民共和国成立後、冀朝鼎は中国銀行副総裁の地位に就き、帆足たちが訪中した年に組織された中国国際貿易促進委員会の副主席も務めた。(中国で外国貿易や国際金融に携わる官僚は諜報活動や秘密工作の経験者が多い。)
③孫平化(1917~1997)
 晩年まで日中友好運動の中国側代表者を務めた人物で、中国日本友好協会の第三代会長も務めた。張香山と並び「知日派」の代表格とされる孫も、戦前、日本に留学している。表向き満州国からの留学生として、孫平化は1939年、東京工業大学附属予備部に入学するも、1943年に中退し帰国。翌1944年に中国共産党に入党し、満州国における中共の秘密工作員として活動した。孫の回顧録「日本との30年-中日友好随想録」(講談社)を読むと、猪木正道が「常軌を逸している」と嘆いた日本の中国に対する無防備ぶりが、早くも戦中から“いかんなく発揮されていた”ことがわかり唖然とする。というのは、この孫平化の親友に、当時の満州国総理だった張景恵の息子、張紹紀がおり、彼も日本留学中から中共の秘密党員で、孫は秘密工作員としての抗日活動に有利な職業を紹介され、張景恵の満州国の総理官邸にもフリーパスで通されたという。
 さらに驚くべきは、張紹紀の日本留学時の身元引受人が東条英機首相だったという事実がある。日本の首相がそうとは知らぬとは言え、敵国のスパイの安全を守るため、日本における保護者になるとは。この時点で、日本と中国共産党との勝負は、戦後の戦いも含め既に決着がついていたようなものである。
④寥承志(1908~1983)
 周恩来と並んで対日工作の総元締めとして長年活動した、中共史上最高の知日派と呼ばれる寥承志であった。寥承志は亡命革命家の息子で、小学生時代から日本で学んだ。20歳前後で中国に戻り、中国共産党入党直後の1928~1932年にドイツに滞在している。このときの欧州での活動はいまでも明らかにされていない。そのような事情を鑑みると、コミンテルンの欧州における謀略宣伝活動の総元締めであったブィリー・ミュンツェンベルク(通称:赤いゲッベルズ)が率いていた「ミュンツェンベルク機関」で各種の謀略宣伝や工作手法を学んだのではないかと思われる。
 寥承志を実務責任者として行われた戦後の対日友好工作は、1920~1930年代の欧州で一世を風靡したミュンツェンベルクの手法そのものであることがわかる。マスコミ、財界人、政治家、文化人、芸術家、スポーツ選手、芸能人・・・ありとあらゆる分野で“撒き餌”をして、世論を操作し、日中国交正常化に向けた地歩を固めていったのである。だからこそ、経済人でも文化人でもない、戦前からの超一級の中共工作員たちが日中友好運動の最先端に立つ必要があったのだろう。戦後の日中関係史は、この戦前=戦後をつなぐ一大底流を押さえておかないとなかなか理解できないだろう。

5.民族は漢族含め56民族で国家をなす複雑な国(民族問題)

①中国の民族構成や少数民族政策
 漢民族は、総人口13.5億人の92%を占め、共産党や政府の要職を占めている。中央政府は、残り8%の中でウィグル族、チベット族、チワン族など55の少数民族を指定している。西部の新疆ウィグル自治区など5つの自治区の他、自治州を設けているが、実験は漢民族が握っている。
②ウィグル族
 古代の交易路シルクロードが通っていた同自治区にすむトルコ系遊牧民を示し、総人口は約1,100万人。イスラム教を信仰し、羊肉を使った料理を好むなど漢民族とは文化や習慣が大きく異なる。
③ウィグル族が漢民族の支配下になった経緯
 ウィグル族は8世紀にウィグル王国を打ち立てるなど独自の歴史を持つが、清朝が18世紀に征服した。“東トルキスタン・イスラム共和国”などとして独立宣言した時期もあるが、1949年中華人民共和国建設時に、中国共産党軍が進駐し支配下となった。
④中国からの独立運動が活発化した理由
 1991年のソ連崩壊を機に、中央アジアではカザフスタン、ウズベキスタンなど同じトルコ系民族の国々が相次ぎ独立したことに触発された。一方で、アメリカが東トルキスタン・イスラム運動というウィグル族の組織をテロリストに指定するなど、イスラム過激派とのつながりも指摘されている。
⑤他の少数民族の動き
 チベット族の若者による焼身自殺が2009年から続き、2013年初めには100人を超えた。中国語による授業の強要など中国共産党の抑圧的な統治に抗議するためである。約600万人のチベット族はチベット仏教の最高指導者ダライ・ラマを頂点とする宗教国家を築いていた。しかし、中国共産党軍が中国建国後の1950年にチベットへ進駐し、ダライ・ラマ14世は1959年に脱出し、インド北部ダラムサラに亡命政府を樹立した。亡命政府はチベット独立ではなく高度な自治を求めているが、中国は亡命政府を分離独立主義者として批判し対話はとまったままである。
⑥中国共産党政権はなぜ少数民族の動向に神経をとがらせるのか?
 中国共産党はウィグル、チベット、台湾の三地域の独立阻止を絶対に譲ることのできない“核心的利益”と位置づけている。どれか一つの独立を認めれば民族運動の連鎖が起き、中国共産党政権の崩壊につながりかねないためである。
⑦新疆ウィグル自治区は原油や天然ガス埋蔵量が豊富
 中国石油天然気集団(CNPC)など漢民族が国営企業の経営トップ、国有石油大手が開発に当たっており、これもウィグル族が不満を抱く一因である。しかし、経済成長で資源が慢性的に不足気味の中国は、エネルギー安全保障の観点からもウィグル族の独立を認めることはできない。

6.太子党と上海閥、共青団

①太子党
 太子党とは、中国共産党の高級幹部の子弟等で特権的地位にいる者たちのこと、或いはその総称である。世襲的に受け継いだ特権と人脈を基に、中国(あるいは華僑社会)の政財界に大きな影響力を持つ。太子は日本語の「皇太子」、英語の「Crown Prince」と同じ意味。党組織だけでなく、コネを生かして企業経営等に関わる場合もある。なお大抵は親の方が地位・知名度共に上だが、曽慶紅のように子の方が出世した例もある。
 数年前に大臣クラス以上の高級幹部の子女が政財界の要職に就いているというリストが流れ、ネット上で批判が加えられた。高級幹部の子女が特権を享受しているのは国家クラスから末端の県、郷で見られ、親族への就職斡旋や裏口入学などが行われている。これは周辺を信頼できる身内で固めることで、自身の地位安定と一族の団結を図る中国の伝統的な大家族主義に由来している。
同じ利益を代表する一つの派閥と捉える報道もあるが、親が属したグループや各自の政治路線の違いもあり人間関係が一枚岩とは言えない。なお、「太子党」という呼称は便宜上マスコミが名づけたもので、特に本人たちが名乗っているわけではない。
●代表例
・劉少奇―劉源(子:軍事科学院政治委員、上将)
・林彪―林立果(子:元空軍作戦部副部長)
・鄧小平―鄧樸方(子:全国政治協商会議副主席、中国障害者協進会主席)・鄧榕(子:中露友好協会会長)・ 鄧楠(子:中国科学技術協会党書記)
・葉剣英―葉選平(子:広東省省長→全国政治協商会議副主席)
・李先念―劉亜洲(娘婿:空軍副政治委員、中将)
・陳雲―陳元(子:中国国家開発銀行頭取)
・曽山―曽慶紅―曽偉(子:投資家)
・江沢民―江沢慧(妹:中国林業科学院院長)・江綿恆(子:中国科学院副院長)・江綿康(子:中国人民解放軍総政治部組織部部長、少将)
・周恩来―李鵬(養子:国務院総理、全国人民代表大会常務委員長)―李小鵬(子:山西省省長)・李小琳(子:中国電力投資集団公司会長兼中電国際社長)
・朱鎔基―朱雲来(子:中国中金公司CEO)
・胡錦濤―胡海峰(子:清華同方威視技術股份有限公司社長)・胡海清(子:新浪前最高経営責任者(CEO)茅道臨夫人)
・温家宝―温雲松(子:優創科技中国有限公司総裁)
・薄一波―薄熙来(子:国務院商務部長→重慶市党委書記)
・習仲勲―習近平(子:浙江省党委書記→上海市党委書記→中華人民共和国副主席→中国共産党中央委員会総書記)
・汪道涵―汪洋(甥:重慶市党委書記→広東省党委書記)
・姚依林―王岐山(娘婿:北京市長→国務院副総理→中央政治局常務委員)
・兪啓威―兪正声(子:湖北省党委書記→上海市党委書記→中央政治局常務委員)
②上海幇(上海閥)
 上海幇の起源は、1989年6月4日の天安門事件後、江沢民が総書記に就任した理由のひとつに中央におけるしがらみのなさがあった。しかし中央入り後、地盤を持たない江沢民は保革の間を文字通り右顧左眄する事態におちいり、徐々に上海時代の部下を中央入りさせたとみられる。
構成員(推測)
・上海市党委書記時代の部下 :呉邦国、曽慶紅、黄菊、陳至立、陳良宇
・総書記就任以降:賈慶林、李長春、呉官正、劉淇、曾培炎、張徳江、周永康、劉雲山、回良玉、華建敏
なお、江沢民が上海市党委書記時代に市長だった朱鎔基は中央入り要請を何度か固辞しており、また副総理、総理時代も一枚岩とはいえなかったため上海幇には数えないのが一般的である。
 曽慶紅は天安門事件直後に中央弁公庁副主任に就任させ、右腕として政敵の露払いをさせ、江沢民の地位を確固なものにさせた。第14期(1992年~1997年)には中央委員候補に過ぎなかったが、中央弁公庁主任に就任した第15期(1997年~2002年)は政治局委員候補、江沢民が引退した第16期2002年~2007年には政治局常務委員と、猛スピードで出世していった。ただし、上海幇は思想的な集団ではなく、1990年代以降の改革解放で恩恵を受けた既得権益層に過ぎず、便宜上、上海幇とされていた者も多く、江引退後は構成員の多くが胡錦濤派に「寝返り」、徐々に縮小、2006年9月に陳良宇が失脚したことで命運が決まった。特に、曽慶紅は自身を中央軍事委員会にねじ込めなかった江沢民を見限り、江沢民の政敵で前任の総書記であった趙紫陽の臨終にも駆けつけた。また、みずから派閥を形成して現在も影響力を保持している。
派閥組織
・上海幇に属しているとされる人物:江沢民、周永康、李長春、薄熙来(失脚)、王立軍、習近平、朱鎔基、賈慶林、黄菊、呉邦国、曽慶紅
胡錦濤に接近、或いは故人となった趙紫陽に同情的など、バルカン政治家的スタンスが強い。
・中国共産主義青年団、団派 :胡錦濤(但し、手法は強硬派)、温家宝、李克強、趙紫陽、胡耀邦、胡啓立
・北京閥:陳希同、王宝森
胡錦涛(1984年12月~1985年11月) - 第4世代
李克強(1993年05月~1998年06月) - 第5世代
周 強(1998年06月~2006年11月) - 第6世代
胡春華(2006年11月~2008年05月) - 第6世代
陸 昊(2008年05月~2013年03月) - 第6世代

7.中国的夢(中国の夢)

習近平は国家主席に就任して間もない2012年11末に重要談話を発表した。各種の公開されている内容を整理すると以下の通りだった。
1)過去を振り返ると、立ち後れれば叩かれるのであり、発展してこそ自らを強くできるということを全党同志
  は銘記しなければならない。
2)現在を見極めると、道が命運を決定づけるのであり、正しい道を見出すことがどれほど難しく、われわれは
  これを揺るがず歩んでいかなければならないということを全党同志は銘記しなければならない。
3)未来を展望すると、ビジョンを現実化するにはまだ長い道程があり、われわれは長期間にわたり苦しい努力
  を払う必要があるということを全党同志は銘記しなければならない。
4)誰しも理想や追い求めるもの、そして自らの夢がある。現在みなが中国の夢について語っている。
5)私は中華民族の偉大な復興の実現が、近代以降の中華民族の最も偉大な夢だと思う。この夢には数世代の中
  国人の宿願が凝集され、中華民族と中国人民全体の利益が具体的に現れており、中華民族1人1人が共通して
  待ち望んでいる。
6)歴史が伝えているように、各個人の前途命運は国家と民族の前途命運と緊密に相連なっている。国家が良
  く、民族が良くて初めて、みなが良くなることができる。中華民族の偉大な復興は光栄かつ極めて困難な事
  業であり、一代、また一代の中国人が共に努力する必要がある。
7)中国共産党結成100周年までの小康(ややゆとりのある)社会の全面完成という目標は必ず達成でき、新中
  国成立100周年までの富強・民主・文明・調和の社会主義現代化国家の完成という目標は必ず達成でき、中
  華民族の偉大な復興という夢は必ず実現できると私は確信している。
 
習近平は、過去の指導者のように堅苦しい共産党の表現ではなく、「中国の夢」を平易な言葉で述べ、中国人の感情に訴え、中国民族の偉大なる復興を主張し、18世紀の清朝への復帰を象徴するものに思える。しかし、裏にはナショナリズム=強兵の夢、強兵の基礎は中国共産党の命令に従うことを意味する。

2012年11月15日、習近平は中国共産党中央委員会総書記に選出された半月後、11月29日に中国国家博物館の「復興の道」展を視察した際に、以下の発言を行った。
     誰しも理想や追い求めるもの、そして自らの夢がある。現在みなが
     中国の夢について語っている。私は中華民族の偉大な復興の実現が、
     近代以降の中華民族の最も偉大な夢だと思う。
     この夢には数世代の中国人の宿願が凝集され、中華民族と中国人民
     全体の利益が具体的に現れており、中華民族一人ひとりが共通して
     待ち望んでいる。
 また、2013年3月14日、習近平は国家主席に選出された後、3月17日の第12期全国人民代表大会第一回会議の閉幕式で以下演説を行った。
    小康社会の全面完成、富強・民主・文明・調和の社会主義現代化国家
    の完成という目標の達成、中華民族の偉大な復興という夢の実現は、
    国家の富強、民族の振興、人民の幸せを実現させるものである。
    中国の夢とはつまり人民の夢であり、人民と共に実現し、人民に幸せ
    をもたらすものだ。
 中国最高指導者に就任した習近平は、11月に「中華民族の偉大なる復興」を掲げ、中国共産党第十八回全国代表大会より中国共産党の統治理念となった。しかし、中国共産党綱領における指導原理は、マルクス・レーニン主義、毛沢東思想、鄧小平理論、江沢民の3つの代表、胡錦濤の科学的発展観の5つのままである。

南シナ海 漁船が軍事組織に 知られざる中国の「海上民兵」 2015.11.21
The Wall Street Journal(2015.04)から転載

フィリピンは2015年3月、中国に対抗して南シナ海の係争海域で建設作業を再開すると発表した。
フィリピンは実質的に勝ち目のない争いに足を踏み込んだと言える。2月に公開された衛星画像から、中国は南シナ海の大半を管理下に置くため、未曽有の規模で建設や埋め立て作業を進めていることが明らかになった。フィリピンから約970kmしか離れていない海域に面積62,700m2の人工島が作られ、そこにセメント工場やヘリコプター発着場が建設されている。
 東シナ海と南シナ海における中国の領土的野心は、これまで十分に実証されてきた。一方、こうした野心を実現させる重要な要因の中であまり知られていないのは、十分な資金力を持つ「海上民兵」の存在である。
 ベトナムと同様、中国は海上民兵を抱える数少ない国の一つだ。この部隊は通常、民間漁船で編制され、さまざまな活動に従事する。これには難破船の救助など緊急対応から、島に上陸して主権を主張するといった強硬な活動まで含まれる。大企業で民間活動に従事する船員や漁業連合が軍事組織に採用され、軍事訓練や政治教育を受け、中国の海洋権益を守るために動員される。
 中華人民共和国の建国初期に創設された海上民兵は、世界最大の漁船団で編制されている。ここ数年で海上民兵は洗練さと重要性を増し、建築資材の運搬から情報収集まで幅広い任務を果たすようになってきた。最精鋭部隊は、必要があれば機雷や対空ミサイルを使い、「海上人民戦争」と呼ばれるゲリラ攻撃を外国船に仕掛けるよう訓練されている。現在、海上民兵は実質的に中国政府が管理する第一線の部隊として機能し、東シナ海と南シナ海で中国の権利を主張するための監視や支援、けん制などの活動に従事している。
中国以外では海上民兵についてほとんど知られていないが、公式に入手可能な中国の資料からその実体をうかがい知ることができる。
 海上民兵に関する疑問の中で、最も複雑なのは「誰が統率しているか」だ。建設作業や訓練など、海上民兵がこなす日常業務は沿岸都市や郡に配置されるおびただしい数の人民武装部によって実施され、これを軍分区の司令部が監督している。海上民兵はさまざまな機関から直接指揮を受けて幅広い役割をこなすため、ここから先の組織構造は一段と複雑になっている。
 最近、規模を縮小したり専門性を高めたりすることで、各部隊の役割を変容させる努力が続けられてきた。その一例が浙江省玉環郡の海上民兵大隊で、この部隊は海軍の船に燃料や弾薬などを供給している。
 このほか、偵察部隊、重要な施設や地域を護衛する部隊、敵を混乱させたり敵の設備を故障させたりする部隊、海上輸送能力を増大させる部隊、修理や医療救助に従事する部隊など、さまざまな支援活動に関わっている。2014年8月にトンキン湾で実施された海軍、沿岸警備隊、民兵との合同訓練では、掘削プラットホームを防衛するため、漁船には偵察や傍受の任務が与えられた。
 また、海上民兵は中国の政治活動や外交政策に協力し、係争海域における中国のプレゼンス維持を支援したり、領有権を主張する島々に上陸したりしている。これを後押しするカギは、部隊が日常業務とする漁業などの活動と中国の海上における「闘争」とを最高の形で結びつけることだ。一方、軍司令官から任務を要求されたときに迅速に反応する能力を維持することも重要となる。数千隻に上る海上民兵の船には「北斗」と呼ばれる中国独自の衛星測位システムが設置されている。これにより民兵は他の部隊を追跡できるほか、テキストメッセージの送受信、船員がタブレット上に手書きした中国語の読み込みなどができる。

機雷の配置訓練を受ける中国民間漁船 Photo: Courtesy of U.S. government

拡大する中国のサイバー部隊(網軍)

中国政府がサイバー戦争に特化した部隊を保持していることを、中国人民解放軍が発行している『The Science of Military Strategy』の最新版の中に、中国のサイバー部隊に関する記述で、事実上認める文書が発見されている。
 The Diplomatの報道(2015年3月24日)によると、「防衛だけではなく、攻撃も行うサイバー戦争の部隊を中国が所有していること」、「文民政治、軍事の両方の軍隊があること」などが明記されているという。中国人民解放軍のサイバー攻撃部隊、特に悪名高き61398部隊(「人民解放軍総参謀部第三部第二局」とも呼ばれる)の存在と、そのハッキング能力の恐ろしさは、もう何年も前から「周知の事実」として世界中に知れ渡っている。
◇悪名高き61398部隊(「人民解放軍総参謀部第三部第二局」
 中国サイバー軍とは、中国の電子戦部隊であり、主に中国人民解放軍総参謀部第三部二局中国人民解放軍61398部隊(PLA Unit 61398)を指すとされるが、中国政府が2011年に認めた「ネット藍軍」およびメディア・リサーチが指摘する「海南島基地の陸水信号部隊」などの複数指摘があり、これらが同一組織なのか別の組織なのかは明らかになっていない。
 また民間団体委託も報道されており、さらには米年次報告書には国防科工局による民間人スカウトの可能性も指摘されており、その全容は分かっていない。 これらがサイバー戦部隊とされ総称として中国サイバー軍と呼ばれる。
 2014年に存在を指摘された61398部隊は上海市浦東新区高橋鎮大同路208号にあり、2007年に完成した12階建てビルに拠点を置く。 英語に堪能な要員数千人を抱えて活動している。2013年2月に米国の情報セキュリティー会社マンディアント(英語版)が公表した報告書で存在が明らかとなった。
◇「国家安全部第13局」「公安部金盾」もサイバー部隊
中国でサイバー戦に関与しているのは、軍だけではない。 国務院( 内閣に相当 )の対外諜報機関である 「国家安全部」にも、科学的偵察技術の開発を担当する 「第13局」という部署があり、ハッキングによる機密情報入手などを行っている。あるいは、国務院の治安警察である 「公安部」は、非常に大規模な国内ネット検閲システム 「金盾」を運営している。
 金盾は、公安部が有害と判断した海外のサイトヘのアクセスや、禁止キーワードを含む検索やメールを遮断するほか、ネット上のコメント削除、要注意人物・組織のネット活動の監視などを行っている。 2015年3月30日に、中国国内からグーグル香港版へのアクセスが遮断されたことがあるが、これも金盾によるものとみられている。金盾は国内監視が主目的のものだが、有事の際には強力なサイバー戦のツールにもなる。 インターネットを恣意的に瞬時に遮断できるということは、“敵国”からのハッキングもある程度は遮断できるということになるからである。

中国のサイバー戦とハッキング関連部門